スカウティングに影響を与えた人々

【参考にしてください】


 過去に著書として世に出したことがあります。




は じ め に

 スカウティングがベーデンパウエル卿によって始められた運動である事は周知の事実でありますが、この世界的運動であるスカウティングには数多くの人々が奉仕され、そして世界のスカウティング、日本のスカウティングに大きな影響を与えてこられました。スカウティングの歴史を研究する時、そこに登場する指導者の生きざまや、ひたむきな努力、スカウト教育に対する情熱、謙虚な奉仕の精神が感じられます。 この書物は私自身の、指導者としての自己研修の一つとして、スカウティングに影響を与えた人々についてまとめてみたものですが、スカウティングに影響を与えた人々について調べていくうちに、現代を生きる私たち指導者の生き方をも示唆しているように思えます。記述に正確を記すため、スカウト関係の資料や文献を参考にし、これを一部引用したものもありますが、編著者の浅学非才のため誤りがあるかもしれません。しかし、本書がスカウト経験のない新しい指導者や若いスカウト出身の指導者の自己研修のために少しでもお役に立てれば幸いです。


..................................................................................長 八洲翁


登場する人物


★アンノーンスカウト Unknown Scout
★アンノーン ソルジャー Unknown Soldier
★飯田 貞雄 (いいだ さだお)
★石坂 泰三 (いしざか たいぞう)
★今田 忠兵衛 (いまだ ちゅうべい)
★植村 甲午郎 (うえむら こごろう)
★キム  Kim
★久留島 秀三郎 (くるしま しゅうざぶろう)
★後藤 新平 (ごとう しんぺい)
★斎藤 実 (さいとう まこと)
★佐野 常羽 (さの つねは)
★シートン Earnest Tompson Seton
★昭和天皇 (しょうわてんのう)
★ジョン・サーマン  John Thurman
★ソマーズ Lord Somers
★竹下 勇 (たけした ゆう)
★ダン・ベアード Dan Beard (Daniel Carter Beard)
★土光 敏夫 (どこう としお)
★中野 忠八 (なかの ちゅうはち)
★中村 知 (なかむら さとる)
★ノーマンロックウェル  Norman Rockwell
★ヒルコート William Hillcourt
★二荒 芳徳 (ふたら よしのり)
★古田 誠一郎 (ふるた せいいちろう)
★古田 伝一 (ふるた でんいち)
★ペスタロッチ Johan Heinrich Pestalozzi
★ベーデン・パウエル  Robert Stephenson Smyth Baden-Powell
★松方 三郎 (まつかた さぶろう)
★三島 通陽 (みしま みちはる)
★村田 正雄 (むらた まさお)
★村山 有 (むらやま たもつ)
★モンテッソーリ Maria Montessori
★吉川 哲雄 (よしかわ てつお)
★ラジャード・キップリング Rudyard Kipling
★ラルフ・ローレン RALPH LAUREN
★レイノルズ  E.E.REYNOLDS
★レディ・ベーデンパウエル Lady Baden-Powell
★ローラン卿 Lord Rowallan
★ローランドフィリップス Roland Erasmus Philipps
★渡辺 昭 (わたなべ あきら)


★アンノーンスカウト Unknown Scout 一九〇九年、霧に閉ざされたロンドンで道に迷った紳士ボイス氏に道案内をし、 お礼のチップを受け取らず「私はボーイスカウトです。お礼はいただきません。 私に日日の善行の機会を与えてくださってありがとう。」と、にっこりして闇の 中に消えていった無名のスカウトのこと。 これがきっかけとなって、翌年の一九一〇年二月八日、トムソン・シートンを初 代総長としアメリカにボーイスカウト運動が発足した。 その後、アメリカのボーイスカウトが百万人を越したとき、この功労者として無 名のスカウトを捜したが見つからず、協議の末、バッファロー(野牛)の銅像を アンノーンスカウトをたたえイギリスのギルウェルパークに寄贈した。 同時に、シルバー・バッファローという功労章をつくり、その第1号をベーデン パウエルに贈り、第2号をこの無名スカウトに贈った。
 (参考)
It was a Good Turn that brought Scouting to the United States. One day in the fall of 1909,the city of London was in the grip of a dense fog. An American publisher,William D.Boyce of Chicago,stopped under a street lamp to get his bearings. Out of the gloom a boy approached him and asked if he could be of help. Boyce gladly accepted the offer. He told the boy that he wanted to find a certain business office in the center of the city. "I'll take you there," said the boy. When they reached the destination,the American put his hand in his pocket for a tip. The boy quickly stopped him. "No,thank you,sir," he said. "Not for doing a good turn." "And why not?" "Because I am a Scout.And a Scout doesn't take anything for helping". "A Scout? and what might that be?" Boyce asked. And so,the English boy told the American about himself and his brother Scouts. Boyce was interested in what he heard. After finishing his errand,he had the boy take him to the British Boy Scout office. There the boy saluted and disappeared. At the headquarters Boyce met Robert Baden-Powell,the famous British general who had founded the Scout movement two years before. Boyce was so impressed with what he learned about Scouting that he decided to bring it home with him. And so,on February 8, 1910 ,in Washington,D.C.,Boyce and a group of other outstanding Americans interested in the welfare of boys incorporated the Boy Scouts of America. Ever since,this day has been observed as the birthday of American Scouting. In the British Scout Training Center at Gilwell Park,England,there stands a beautiful statuette of an American buffalo. It represents the highest award of the Boy Scouts of America,the "Silver Buffalo", given for outstanding service to boyhood. It was put up in 1926 in honor of the "Unknown Scout" whose good turn brought the Scout movement to the United States.

★アンノーン ソルジャー Unknown Soldier 太平洋戦争の末期、南太平洋の島で重傷をおったアメリカ兵は自分の目の前に、 一人の日本兵が銃剣をもって突っ込んでくるのを見て気を失ってしまった。 やがて気がつくと日本兵はおらず、そばに紙切れがおいてあった。「私は君を殺 そうとした日本兵だ。君が三指の敬礼をしているのを見て、私も子供の頃スカウ トだったことを思い出した。なんで君を殺せよう。傷は応急手当をした。グッド ラック。」この無名の日本のスカウト戦士はいまだにわからない。 のちにこの話が伝わり、日本中のスカウトの募金運動にまで発展し、当時の久留 島秀三郎日本連盟理事長らが中心になって、無名のスカウト戦士の記念像ができ あがった。この像は、神奈川県の「子どもの国」に建てられ、いまもなお、訪れ る人々に日米両国スカウトの美しい友情を伝えている。

★飯田 貞雄 (いいだ さだお)  昭和八年一月十六日 ー 昭和六十三年四月二十八日 元中央審議会議員、指導者養成委員長、進歩委員長 一生を障害児教育のために捧げ、障害児スカウティングの発展のため貢献した。 昭和八年一月十六日生まれ。 昭和二十二年にボーイスカウト東京第4団少年隊に入隊し、以後ボーイスカウト 運動に励む。昭和三十一年、東京教育大学教育学部特殊教育学科を卒業。 山梨大学に奉職。講師、助教授を経て昭和五十三年、教育学部教授。 ボーイスカウトでは昭和四十七年に日本連盟理事、昭和四十八年日本連盟リーダ ートレーナー、中央審議会議員に就任。翌四十九年、障害児スカウティング委員 会委員長。昭和五十二年より指導者養成委員長、昭和五十八年より進歩委員長に 就任する。 一年五ケ月の闘病生活の末、昭和六十三年四月二十八日逝去 享年五十五歳

★石坂 泰三 (いしざか たいぞう) 明治十九年 ー 昭和五十年三月六日 元ボーイスカウト日本連盟総裁 明治十九年、東京で生まれ、一高、東大の独法科を卒業後、明治四十四年逓信省 に入った。その後、大正四年、第一生命に入社、昭和十三年同社社長、昭和二十 四年、東芝社長に就任。その後の経済人としての業績はあまりにも有名である。 東京芝浦電気、日本原子力事業、東芝電興、アラビア石油、石川島芝浦タービン その他、数多くの会社の役員を歴任。経団連会長など各種団体の要職を歴任。財 界の総理といわれた人である。 民間人としては最高の勳一等旭日大綬章を受け、没後、旭日桐花大綬章が贈られ た。昭和五十年三月六日午前五時四十分、脳血栓症のため東京女子医大病院で亡 くなった。享年八十八歳。 「無事是貴人」(無事コレ貴人)を座右銘としていた。 ボーイスカウトとの関係は、昭和八年、少年団日本連盟の審議員となり、昭和十 二年八月には日本連盟の役員として、オランダで開催された第五回世界ジャンボ リーの日本派遣団野営地を訪問し、団員を励ました。 昭和十三年には日本連盟理事に就任しスカウト運動のために尽力した。 戦後、ボーイスカウトが再建されるとすぐ日本連盟顧問に就任。 昭和三十四年に日本連盟副総裁、三十九年七月七日に日本連盟総裁に推戴された。 その間、第四回日本ジャンボリー、第五回日本ジャンボリー、第十三回世界ジャ ンボリー、第二十三回世界スカウト会議にも参加するなど、日本のスカウティン グのみならず世界のスカウト運動の発展のため、寄与した。 昭和四十一年、ボーイスカウト日本連盟は功労章「きじ章」を贈呈し、また世界 スカウト会議は、昭和四十六年に「ブロンズウルフ章」を贈って、その業績を讃 えた。 故石坂泰三総裁の遺品(故人の勲章、有功記章など)は遺族によりボーイスカウ ト日本連盟に贈られ、同年五月七日、東京丸の内の日本工業倶楽部で贈呈式が行 われた。数十点にのぼる遺品の中には、民間人としてはわが国最高位の勲章、勳 一等桐花大綬章 も含まれていた。

★今田 忠兵衛 (いまだ ちゅうべい) 元日本連盟総コミッショナー 第三代大阪連盟理事長(昭和二十七年より四十八年まで) 土佐の名家の出身。幼名は忠太郎。 一九二九年、佐野常羽を団長とする、第三回世界ジャンボリー派遣団として参加 する。その時の派遣団の会計役の古田誠一郎を助け、明快な手さばきで会計事務 を処理したことは、当時「テンポ」というニックネームがついたほどであった。 戦前、初期の大阪連盟の運営面では、井上定次郎、奥村幸二郎らを推して活躍し 理論と教育面で全国的に活躍した中村知、吉川哲雄らの仕事を惜しみなく助け、 陰の力となった。戦後においても、実質的に大阪連盟の運営にあたった。 また、長く日本連盟副総コミッショナーとして、基準の維持に携わった熟達の経 験者である。

★植村甲午郎  (うえむら こごろう) 元日本連盟総裁 明治二十七年三月十二日生まれ。 東京帝国大学政治学科卒業。 農商務省、商工省、資源局総務部長、企画院次長、石炭統制会理事長、日本航空 株式会社会長、サッポロビール株式会社監査役、経済団体連合会名誉会長、日本 工業倶楽部理事長などを歴任。 昭和四十年、勳一等瑞宝章を受賞 ボーイスカウトとの関係は、昭和四十二年九月十四日、ボーイスカウト日本連盟 理事に就任し、石坂泰三総裁の逝去後、昭和五十年三月十八日に総裁代行に就任 し、昭和五十年五月十八日の全国会議において日本連盟総裁に推戴された。

★キム  Kim イギリスの文豪 ラジャード・キップリングの書いた物語の主人公。 キップリングは、この本で一九〇七年にノーベル文学賞を受賞している。 キム(キムポールオハラ)は、インドに駐留していたアイルランド連隊の軍曹の 息子で、彼が小さいときに父母に死に別れ、叔母の世話になっていた。 遊び仲間がみんな土地の少年だったので、彼はインドの言葉を覚え、その地方の 風習をよく知るようになった。彼は冒険好きであった。しばらくして、キムは、 政府の情報部員で宝石商のラーガンという人と知り合った。 ラーガンは、キムが土地の風俗習慣をよく知っており、機敏なのに目をつけ、役 にたつ情報部員にできると考えた。ラーガンは、キムにいろいろな宝石を1分間 見せて、布でおおい、どのような宝石が何個あったかをテストした。 何回かの訓練の後、キムは大切な注意力と記憶力の技能を身につけた。 このキムのはなしから、ボーイスカウトの訓練で行う「キムス・ゲーム」のアイ デアが生まれた。キムは、その後、いろいろな訓練を受け、立派な情報部員とな り、ある時は「こじき」に変装したりして大きな手柄をたてた。 【関連】キムス・ゲーム Kim's Game 「キム」の物語から生まれたスカウトの感覚訓練を行うゲーム。 二十四個の品物を一分間見せて、そのうち十六個以上を記憶していれば合格。 以前のボーイスカウトの2級スカウトの考査課目であった。

★久留島 秀三郎 (くるしま しゅうざぶろう) 明治二十一年九月十一日 ー 昭和四十五年九月二十二日 第五代日本連盟総長(昭和四十一年〜昭和四十五年) 明治二十一年九月十一日、京都で生まれる。旧姓は中野秀三郎。第三高等学校を 経て、大正三年に九州帝国大学工科大学採鉱学科卒業。同年十二月より大正五年 六月まで兵役。 大正五年九月より大正九年七月まで農商務省鉱山局札幌鉱務署勤務、主として鉱 山保安を担当する。大正九年九月満州に渡り、以後十七年間在留、その間、多数 の会社の役員を歴任。昭和十二年に満州を去り、昭和鉱業社長その他を兼務。 昭和二十一年、同和鉱業株式会社取締役社長に就任、昭和三十八年五月、同社社 長を退任し、相談役となる。 ボーイスカウトとの関係は、実兄中野忠八氏の勧めで、大正五年滋賀県琵琶湖畔 の小松崎でボーイスカウト数名と日本最初のスカウト野営をしたことから始まる。 一九二四年(大正十三年)、デンマークで開催された第2回世界ジャンボリーが 終了して、帰国途中の船内で久留島武彦氏と中野忠八氏が雑談している中で、次 のような会話があったという。 「私の弟に(中野)秀三郎というのがおって、結婚を進めても一向に考える気配 がなくて困っているのだが、どこかによい女性はいないものでしょうか。」 「いや中野さん、私の一人娘もあなたの弟さんと同じなので、頭をかかえていま す。どうですかな一人娘を嫁にやることはできないので、あなたの弟さんを、私 の家へ養子として下さらぬか。」 この縁談はトントン拍子に事が進み、中野秀三郎氏の養子が決まり、久留島秀三 郎となった。 満州時代と終戦後の一時期スカウト運動から遠ざかっていたが、昭和二十四年、 実兄中野忠八氏が逝去し、その遺志を継いでスカウト運動に献身することを決意 した。昭和二十五年ボーイスカウト日本連盟理事、昭和二十九年四月に日本連盟 理事長になり、日本連盟組織の確立とスカウト運動の拡大のために貢献した。 昭和四十一年五月、日本連盟総長に推戴され、世界各地で開催されるスカウト行 事、ジャンボリー、会議に出席され「極東のグランド・パパ」の愛称で世界の指 導者から慕われた。 久留島総長の残した二つのこと。その一つは、日本を「にほん」と呼ばずに「に っぽん」とすべきだといわれて、英語の呼称である「ボーイスカウト・オブ・ジ ャパン」を「ボーイスカウト・オブ・ニッポン」と変更することを主張した事で ある。 昭和四十四年の全国会議で賛同があり、その後「ボーイスカウト・オブ・ニッポ ン」が定着した。もう一つの事柄は「無名のスカウト戦士(アンノン・ソルジャ ー)」の物語を、日本の武士道、スカウト精神の結晶であるとして「子供の国」 にこの実話を記念した彫像(横江嘉純氏作)が、久留島総長の意志によって建て られたことである。まさに久留島総長の精神がここに生かされている。

★後藤 新平 (ごとう しんぺい) 安政四年(一八五七)六月五日 ー 昭和四年(一九二九)四月十三日 初代日本連盟総裁及び初代日本連盟総長 元子爵、医師、政治家 安政四年岩手県に生まれ、働きながら福島の医学校に学んだ。明治十三年(一八 八〇)愛知県立病院長兼愛知医学校長となる。一八八二年、板垣退助が岐阜で刺 され、これを治療したことが政治家へ転ずる動機となった。 後藤新平は子供の頃、近所の子らと遊んでいると「謀反人の子」とはやしたて られ、そのことが悔しくてならなかったという。謀反人とは、同じ一族から出た 大伯父高野長英のことだった。長英は、蛮社の獄に連座した当時の進歩的知識人 であり、天保十年(一八三九)、渡辺崋山らと幕政を批判したのをとがめられ投 獄された。 少年時代には斎藤実(後の首相、第二代日本連盟総長となる)と仲がよく、一 緒によく水泳に行ったりした。後藤新平は水泳の後、乱れた髪を器用にゆって帰 るような性格であったが、斎藤実は不器用で髪の毛を振り乱したまま帰宅し、母 親から叱られるのが常であったという。後藤家は斎藤家と同じく仙台伊達家の支 藩水沢の藩士であった。藩主は一万六千石の留守氏であり、新平の父十右衛門実 嵩は小姓頭をつとめていた。式部官のような役どころであった。明治維新で後藤 家は没落した。それは仙台藩が官軍に対抗して朝敵となったためである。水沢藩 は明治政府にとりあげられ、家臣はみな平民となり帰農したのである。明治初年、 廃藩置県の令が下され、全国の武士が失職したが、「水沢町沿革史」の中に「字 吉小路 後藤十右衛門 男女三〇、字吉小路 斎藤 貞雄 男約三〇」という記 述がある。この後藤十右衛門は後藤新平の父で、斎藤貞雄は斎藤実の祖父である。 この記述の中の二人は共に元武士の師弟を教えていたのである。 後藤新平の立身出世のきっかけは、胆沢県(旧水沢藩)の給仕に採用されたあ と、大参事(副知事)の安場一平の知遇を得て、終始後藤新平の引き立て役とな った。  新平は働きながら福島の医学校に学び、明治十三年(一八八〇)愛知県立病院 長兼愛知医学校長となる。一八八二年、板垣退助が岐阜で刺され、これを治療し たことが政治家へ転ずる動機となった。 後藤新平はその後、内務省に入り、ドイツに留学し三十六歳で衛生局長となっ た。その後、相馬家のお家騒動である相馬事件にかかわり明治二十六年十月二十 五日に後藤邸は官憲により家宅捜査を受けた。高級官僚であった後藤新平を逮捕 するには天皇のご裁可が必要であり、のびのびになっていたが、十一月十六日つ いに後藤は神田の路上を通行中、警視庁の係官に拘引された。錦織剛清誣告事件 の公判は明治二十七年二月十二日より開始されたが、後藤は「犯罪の証憑十分ナ ラズ」として無罪がいいわたされた。しかし、衛生局長の椅子は棒に振った。 その後、台湾民政局長となり、明治三十九年(一九〇六)初代の満州鉄道総裁と なり、さらに明治四十一年には逓信大臣となり、さらに内務大臣、外務大臣を務 めた。また、東京市長のとき関東大震災 後の大規模な復興計画を立てたりした。 明治・大正の時代を通じて大陸進出を唱 え、日本帝国主義を作り上げることに 努力し、日露国交回復にも尽力した。 ボーイスカウトとの関係は・・・・・・ 少年団日本連盟が結成されたのは大正十一年四月十三日であった。このとき初代 総裁(のち、総長)として推戴された。(理事長には二荒芳徳が就任した) 初代総裁になった後藤新平は「少年団の使命」のなかで次のように述べている。 「顧フニ少年団運動ノ有スル其ノ使命ハ国体ヲ尊奉シ、忠孝ヲ本トセル国家主義 ト同時ニ博愛協調ノ精神ニヨリ世界人類ノ幸福ニ貢献シタイト言フ国際主義トヲ 経緯トシタ一大倫理運動デアリマシテ、児童ノ少年期ニ特有スル教育受能性ノ如 キ特性ヲ利用シテ熾烈ナル愛国者タラシムルト共ニ国際的ニ陶冶セラレタル公民 タラシメ様ト言フニアリマス」 晩年の後藤新平は少年団運動(ボーイスカウト運動)に傾注した。 ボーイスカウト発展のためにつとめて全国各地を歴遊し、スカウト運動を助ける と共にその普及に尽くされたので、全国のスカウトの敬慕の的になった。 当時、後藤総長の古希を祝う歌があった。   (一)僕らの好きな総長は 古希のお年になられても ますます元気で えらい人 総長いやさか いやさか (二)僕らの好きな総長は 白いおひげに鼻めがね 団服つけて杖もって    いつも元気で にこにこ 総長いやさか いやさか (三)僕らの好きな総長は 健児のためというならば お国のはてのはてまでも よろこび勇んで行かれます 総長いやさか いやさか 後藤総長は昭和四年四月三日、東京を出発して西下の途中、米原駅付近で脳溢血 で倒れ、京都府立病院に入院された。スカウト関係者は心から回復を祈ったが、 ついに四月十三日京都で亡くなった。京阪神のスカウト達が後藤総長のひつぎを 担いで列車に乗せ、涙の中に見送ったのであった。
 【後藤総長の言葉】
  「金を残して死ぬ奴は下だ。仕事を残して死ぬ奴は中だ。  しかし人を残して死ぬ人は上だ。」    自紀の三訣  「人のお世話にならぬよう   人のお世話をするよう   そしてむくいを求めぬよう」

★斎藤 実 (さいとう まこと)
 安政五年(一八五八)十月二十七日 ー 昭和十一年(一九三六)二月二六日 日本連盟(当時の大日本少年団連盟)第二代総長 一九三五年(昭和十年)六月 に推挙された。 元 子爵、政治家(首相、海軍大臣、内大臣)、海軍大将 幼名は「富五郎」 安政五年岩手県に生まれ、初代総長の後藤新平とは仲がよく、一緒によく水泳を した。海軍兵学校に応募し合格した。海軍兵学校在学中に「富五郎」から「実」 に改名した。 海軍兵学校を卒業した後、アメリカに留学した。 明治三十六年(一九〇六)第一次西園寺内閣の海軍大臣となり、以来五代の内閣 に入閣した。大正八年朝鮮総督、その後ジュネーブ軍縮会議全権を歴任し、昭和 七年、五・一五事件による犬養内閣総辞職のあとをうけて首相に選出され、非常 時内閣を組織し、昭和九年に首相を辞任した翌年、昭和十年には元老格の内大臣 となる。同年六月、大日本少年団連盟の第二代総長として推挙されたが、翌年の 昭和十一年、二・二六事件で政府重臣の一人として暗殺された。 日本連盟第二代総長としてはわずか八か月間の在職であった。 (斎藤家と斎藤 実) 斎藤家は後藤新平の生家と同じく仙台の支藩水沢の藩士であったが、先祖は藤原 氏と称している。藤原鎌足から何代か後に鎮守府将軍となった利仁がいるが、こ の七男の叙用という人が始祖である。斎宮頭・宮内丞・正五位越前守といった官 位についたが、「子爵斎藤實伝」(昭和十六年刊)によると「斎宮頭ト為ルニ依 リ、ソノ子孫斎藤ト号ス」とあり、「慶長五年最上陣ノ節殊勲アリ、中興ノ祖ト ス」と記録されている。慶長五年は西暦一六〇〇年で関ヶ原の決戦があり、この 時、徳川方に味方した最上義光(よしあき)の指揮下で活躍し戦功があったよう である。 「水沢町沿革史」の中で明治初年の家塾の項に「字吉小路(あざ、きちこうじ) 後藤十右衛門 男女三〇、字吉小路 斎藤貞雄 男約三〇」の記載があり、家塾 として主に元武士の師弟を教えていたことが分かる。この中で後藤十右衛門は後 藤新平の父で、斎藤貞雄は斎藤実の祖父である。斎藤実の父、斎藤高庸も寺小屋 の師匠であった。斎藤実も幼い頃、父の家塾で勉学に努めていた。当時机を並べ た水沢の古老のひとりは「斎藤高庸は息子の富五郎(実の幼名)には特に厳格で あり、三度教えても覚えないときは大勢の教え子達の前でも竹の鞭で頭を殴りつ けた。」と語っている。実は父に殴られてもじっと我慢して大粒の涙を机にこぼ したという。後藤新平とは仲がよく、一緒に水泳に行ったりしたようである。こ の時、新平は泳ぎで乱れた髪を器用にゆって帰ったが、不器用な富五郎は髪をふ り乱したまま帰宅していつも母親に叱られた。鋭の新平と鈍の実の性格の違いが ここによく表れている。  府県制度がしかれ、富五郎も新平も官員の家の給仕に採用され、その後、富五 郎は県庁に移ったが、ある時、県庁内の監獄で火災があり、みんなが慌てている なかを富五郎少年はひとり平然と各部屋にロウソクをつけてまわったという。 十五歳の時、上京し、水沢県東京出張所に勤めた。その後、陸軍幼年学校に合格 したが、資力がなく入学を断念し、次いで海軍兵学寮予科生に志願し合格したの でここに入学した。在学中に富五郎から実に改名している。海軍ではエリートで あった彼は、明治二十五年、海軍の山本権兵衛(当時大佐)の仲介で、仁礼景範 (にれかげのり)中将の長女春子と結婚する。その後、斎藤実は海軍大佐では異 例の海軍次官に登用される。時の海軍大臣は山本権兵衛であった。この時、日露 戦争が勃発し、日本海大海戦が始まった。 彼はこの後、海軍大将、海軍大臣となり、ついに昭和七年、首相候補者の平沼 騏一郎(ひらぬまきいちろう・枢密院副議長)と鈴木喜三郎(政友会総裁)のふ たりを退けて首相に指名された。穏健な人格者である点が評価され、元老の推薦 があったという。 昭和九年、首相を辞任した後、昭和十年には元老格の内大臣となった。同年六 月、大日本少年団連盟の第二代総長として推挙されたが、昭和十一年の二・二六 事件で、斎藤実(内大臣)の私邸へ三人の将校に指揮された一五〇名の兵隊が押 し入り、寝室で起き上がった斎藤実をピストル、機関銃で撃ち即死させてしまっ た。春子夫人はかばおうとして自分自身も二カ所の重傷をおった。斎藤実の実子 はなく、跡目は三菱財閥の番頭役の豊川良平の五男の斉が継いだ。

★佐野常羽 (さの つねは)
明治四年(一八七一)七月三日 ー 昭和三十一年(一九五六)一月二十五日 従2位勳2等・元海軍少将・伯爵。日本のボーイスカウト運動における指導者道 を確立した人。 日本赤十字社を創設した佐野常民の三男として一八七一年(明治四年)七月三日 東京麹町に生まれる。平貞盛と将門を討ち、功により下野・武蔵の両国守となっ た平安時代の武将藤原秀郷の末裔であり、北条時頼が立ち寄ったとき、大切にし ていた鉢の木を囲炉裏にくべてもてなしたという「鉢の木」の話で知られる、佐 野源左衛門常世の末裔である。 のち海軍兵学校に入学し、明治三十五年に家督を継ぎ伯爵となる。 東郷平八郎艦長のもとで砲術長、海軍高等通訳官、ドイツ大使館付武官、戦艦榛 名艦長などを歴任。大使館付武官時代、しばしばロンドンに滞在しボーイスカウ ト運動を見聞する機会が多かった。退役後、大正十一年、栃木県佐野に唐沢義勇 少年団(後の唐沢ボーイスカウト)を結成以来スカウト運動に尽力するようにな った。 五十五歳の頃、京都の少年団運動の創始者で、五条大橋の近くに薬種商を営んで いた中野忠八氏(後の日本連盟総長久留島秀三郎の実兄)を訪ねて教えを請うた ところ、中野忠八は関西弁で「あきまへん、そんな自分が暇になったからという て、えらいさんの遊び仕事にでけるもんやないわ。やめときなはれ。」と言下に これを断わった。あきらめなかった佐野常羽は、店舗や表玄関ではなく勝手口か ら再三訪れ、辞を低くして面会を求めた。その身分も地位も省みない熱心さに中 野忠八も感に打たれ、後にこの二人は意気投合して、日本のスカウティングの指 導者養成に協力して、その基礎を築いたのである。 大正十三年の第2回世界ジャンボリーに参加し、その後ボーイスカウト国際会議、 世界ジャンボリーに日本代表として参加した。昭和六年には、ベーデンパウエル より、ボーイスカウトの最高栄誉章「シルバーウルフ章」を贈られた。この「シ ルバーウルフ章」を贈られたのは、日本では昭和天皇と佐野常羽だけである。 日本のボーイスカウト運動においては、大正十四年、指導者訓練所(のちの中央 指導者実修所)を開設した功労がある。これによって、日本におけるボーイスカ ウトの指導者道が確立された。昭和二十九年、日本連盟は「長老」の称号を贈り、 翌年には、日本連盟の最高功労章である「きじ章」を贈った。 昭和三十一年一月二十五日、八十六歳で逝去した。現在、ボーイスカウト日本連 盟山中野営場の玄関に、佐野常羽の胸像がたててある。また、山中野営場には 「佐野広場」があり、佐野記念碑(道心堅固の碑)が建てられている。 第2回世界ジャンボリーに参加した後、日本人として初めてイギリスのギルウェ ル訓練所に入所し、ここで「弥栄」を披露した。ギルウェル訓練所所長のJ.S ウィルソンが、入所している十三カ国の指導者全員に、各国の「スカウト祝声」 をやるように言われたとき、「弥栄」を行い、災いを転じて福となすという意味 であることを説明したところ、所長は発声法は日本のものが一番よい。そのうえ 哲学が入っていると喜び、以後、この「弥栄」をギルウェル訓練所の祝声とする と言った。このようにして日本の「弥栄」は世界のスカウト用語となった。 ドイツ大使館付武官として赴任する前に、尾上菊五郎丈についてスマイルの勉強 をし、これがボーイスカウト運動に入ってからも有名な「佐野スマイル」である。 佐野常羽の残した教えには「無私」、「合作の心」、「清規三事」がある。 「清規三事」は実践躬行・精究教理・道心堅固であるが、語学に堪能でありこれ を Activity First, Evaluation Follows, Eternal Spirit と英訳された。  〈清規三事〉 しんきさんじ   実践躬行 Activity First (スカウティングには自らの実行が第一である。)   精究教理 Evaluatiom Follows (実行にはその価値を評価反省し、そして理論の探求が必要である。)   道心堅固 Eternal Spirit (実行・評価反省を繰り返し「さとり」をひらき、永遠に滅びることの    ない心境を開く。)
【佐野家の歴史】 肥前佐賀藩士
「華族大観」に「其祖は藤原秀郷(ひでさと)の末裔佐野源左衛門常世(つねよ) より発している」とあり、藤原秀郷は平貞盛と将門を討ち、功により下野・武蔵 の両国守となった平安時代の武将である。 佐野源左衛門常世は謡曲や歌舞伎の「鉢の木」の主人公として有名である。 鎌倉幕府の五代執権北条時頼が民情視察のため諸国をまわったとき、上野国佐野 庄で雪に降られ、そのとき立ち寄ったのが佐野源左衛門の家であった。常世は秘 蔵の梅・松・桜の鉢の木を囲炉裏にくべて、寒さに震える時頼をもてなしたとい う。 佐野家の発祥の地はこの上野群馬郡佐野村で、いまの高崎市の近郊上佐野付近で ある。佐野家は常世の十代の孫常貞にいたり佐賀三十五万石の鍋島家につかえた。 (父 佐野常民について) 佐野家の名をあげた明治時代の佐野常民(佐野常羽の父)は佐賀藩士の下村充実 の子に生まれ、佐野常徴の養子となった。常民は安政二年(一八五五)藩から選 抜されて長崎へ留学し、慶応三年(一八六七)には藩命でフランスの大博覧会を 見学し、イギリス・オランダの海軍や製鉄事業を視察して帰り、佐賀藩の海軍創 立や汽船製造にあたった。佐賀藩の軍備は幕末の諸藩の中ではきわめて近代化し ており、戊辰戦争で官軍が勝利できたのも佐賀藩の戦力が大きかった。常民は明 治になると兵部少丞として明治海軍創設に尽力し、工部大丞をへて大蔵卿、元老 院議長、農商務大臣を歴任するが、常民の最大の業績は日本赤十字社の創立であ る。明治十年、常民らが尽力してつくりあげた博愛社が母体で、明治十九年ジュ ネーブ条約に加盟して正式に日本赤十字社が発足し、佐野常民は初代社長に就任 した。佐野常羽は佐野常民の三男として生まれ、父常民の跡を継ぎ、ドイツ大使 館付武官、海軍少将、榛名艦長、日本赤十字社理事を歴任したが、神道の一派大 成教の管長もつとめた。
 【参考】 山中野営場について (佐野常羽の指導者訓練のゆかりの地) ボーイスカウト日本連盟の常設野営場である。 大正末期に開かれた、佐野常羽の指導者訓練のゆかりの地でもある。 篭坂峠で有名な国道一三八号線沿いにあり、面積約 七万三〇〇〇平方メートル、 標高一千百メートルの位置にあり、カラマツに囲まれ、野鳥が多く生息する。山 中湖が眼下に広がっている。 主な施設は、昭和四十六年七月に完成した本館の宿泊研修棟、旧館(臨雲寮)、 備品倉庫、野外講堂、大洞街道から北方を望む中央広場、道心堅固の碑がある「 佐野広場」、吉川哲雄を記念して作られた「われはふくろ碑」のある富士見台、 本館高台と中央広場を結ぶ通称「アパッチ坂」、道心門などである。   〒401-05 山梨県南都留郡山中湖村旭が丘     ボーイスカウト日本連盟 山中野営場 TEL 05556-2-0141 東海道線「沼津」駅で御殿場線に乗り換え、「御殿場」駅下車、駅前から富士急 行バスで「白樺キャンプ場入口」下車徒歩3分。

★シートン   Earnest Tompson Seton 1860.8.14-1946.10.23
(元来は Earnest Seton Tompson であった。) ボーイスカウトアメリカ連盟の初代チーフスカウト(総長)1910-1915 一八六〇年八月十四日、イギリス Durhamの South Shields の船主の、十四人 兄弟の十二番目として生まれた。 五歳の頃、父が事業に失敗し一家はカナダに移住する。幼年のシートンはカナダ の風雪とジャングルの中で人間形成された。一時、胸の病に冒され闘病生活をす るが、六歳からほとんどの時間を野外で遊んで過ごした。これが彼のウッドクラ フトのスタートであった。 十二歳の時、芸術家になろうとしてトロントに移ったが、野生の生活が捨てきれ なかった。彼は博物学者になりたかったが、父は画家になることを望んでいた。 十六歳で画家の卵となる。十九歳の時ロンドンに行き絵の勉強をするが、実は父 にだまって博物学をやるのが目的であった。この時、皇太子とカンタベリー大僧 正と首相のビーコンズフィールド卿に直接面会して、大英博物館の特別図書室へ の入室の推薦をさせた話は有名である。 ロンドンのローヤル・アカデミー絵画彫刻学校の奨学生に選ばれたことは幸運で あった。実はこの奨学生にはロンドン動物園への無料入場の特権があったことが 彼を喜ばせた。ロンドンでの生活は貧乏暮しであったが彼は大英博物館の特別図 書室で博物学を学ぶ一方、ロンドン動物園で動物の絵を描き続けた。 その後、一八九〇年から一八九六年まで、パリで絵の勉強を続けた。 有名な「動物記」の初版は一八九八年で、三十八歳のときであった。その後アメ リカに永住することになり、青少年運動に関与することになる。 彼はアメリカのレッド・インディアンの生活をヒントにし、これを少年達に応用 して、一九〇二年、" Woodcraft Indians "という野外活動の少年団体をつくった。 後年、これは Woodcraft League of America となった。しかし、彼はすでに 一八七四年、十四歳の時、自分で「インディアン部族」という名の団を作ってい る。(後でこれはロビンフッド団と改称した。) 一九〇六年一〇月三〇日、シートンはベーデンパウエルに会い、昼食を共にしな がら" Woodcraft Indians " の体系について説明し、盛んにインディアンごっこ について語った。場所は Savoy Hotel。その後、シートンは自分の著書をベーデ ンパウエルに郵送した。その小さな本の名は   "The Birch-back Roll of Woodcraft Indians" (Ernest Tompson Seton)  ベーデンパウエル はシートンに次のような返事を書いた。 「私も、あなたのように、少年達のため、スカウトという名の教育法について本 を書こうとしていることを申し上げたら、さぞあなたは興味をもたれることだろ うと思います。あなたのお仕事が、私に特別な興味を与えたことは申し上げるま でもありません。」 その後、ベーデンパウエルはシートンに "Aids to Scouting" を送り、それと共 に近日起草しようとする"Scouting for Boys"の資料を送った。 その後、二人は手紙のやりとりをしている。 ベーデンパウエルはシートンの考えたゲームを用いる許可を得たし、シートンは ベーデンパウエルの援助によって野営法の部分を改訂した。 ベーデンパウエルのブラウンシー島での実験キャンプで実施した「鯨とり」ゲー ムはシートン作のものであった。また、ボーイスカウトの技能章制度は、シート ン方式の Honor章にならったものであるし、ボーイスカウトの独特の制度である 「班制度」も実際にはシートンが始めたものであった。 シートンとベーデンパウエルは互いに影響を与えながらその道を歩んだが、根本 的な考え方については完全な一致を見なかったようである。例えばベーデンパウ エルにとっては、ウッドクラフトはスカウティングの一つの手段であった。(ス カウティングは、その究極の目的を人格形成におき、ちかい・おきてを基盤とし た) しかしシートンはウッドクラフトそれ自体が目的であった。 一九一〇年二月八日、ボーイスカウトアメリカ連盟が結成されたとき、シートン の作った Woodcraft Indian 団(当時三〇〇団以上あった)もボーイスカウトに 合流した。そしてシートンの五〇歳の時、ボーイスカウトアメリカ連盟初代の総 長(チーフスカウト)に就任した。 シートン総長を助けたのはダン・ベアードで、National Commissioner として、 一九四一年六月十一日、九十一歳で死ぬまでアメリカ連盟に奉仕した。 しかし、アメリカ連盟の創立当初よりシートンと他の指導者との考え方の相違が あり、一九一五年、シートンは総長を辞任して Woodcraft League のほうへ戻 った。 その理由は、当時のアメリカのスカウト運動の軍国主義、管理主義、野外活動精 神からの逸脱を批判し、スカウト運動から去って行ったのである。また、Indian ごっこのほうが好きであったようである。 一九四六年一〇月二十三日、ニューメキシコのサンタ・フェにて八十六歳で亡く なった。死ぬ前日まで元気で、自分で屋根に登って屋根の修理をしていたという ことである。
  【シートンの主な著書】 Wild Animals I Have Known (1898) 「動物記」 改訂版は一九四二年 The Trail of the Sandhill Stag (1899) Biography of a Grizzly (1900) Lives of the Hunted (1901) Two Little Savages (1903) Biography of an Arctic Fox (1937) The Trail of an Artist-Naturalist (1940)    シートンの自叙伝 The Game Animals of America     アメリカの動物についての研究 Animal Tracks and Hunter Signs    自然観察について書かれた本

★昭和天皇 (しょうわてんのう) 明治三十四年(一九〇一)四月二九日 ー 昭和六十四年(一九八九)一月七日 第百二十四代天皇  迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと) 明治三十四年四月二十九日に生まれ、昭和六十四年一月七日崩御 八十七歳 昭和三年十一月十日即位される。 大正十年から父帝(大正天皇)の摂政となり、関東大震災の苦難に直面する。 二十五歳で皇位を継承し、やがて軍部の台頭の時代となり、第二次大戦に敗北す る。昭和二十一年元旦、天皇の神性を否定する宣言を発表し、その後は象徴天皇 として多忙な国事に精励された。そのかたわら、生物学の研究を深められ、著書 も多い。歴代天皇の在位と長寿の新記録を樹立し、昭和六十一年には在位六十年 記念式典が挙行された。しかし、昭和六十三年夏に体調を崩され、九月の吐血以 後、三カ月半に及ぶ闘病生活の末に八十七歳で崩御された。自らも現人神から人 間天皇への転換を体験するなど、激動の昭和史の象徴でもあった。 ボーイスカウトとの関係は、昭和天皇が皇太子時代の大正十年、ヨーロッパを訪 問したその五月十七日にボーイスカウトの創始者ベーデンパウエルを謁見された。 ベーデンパウエルはスカウト精神と、その教育法についてお話申し上げたが、な かでもスカウト教育は、人に信頼される人間を作ること、その精神の究極の目的 は、世界の平和にあることを強調し、日本精神に心から傾倒していること、また その精神を取り入れたことに感謝している旨、申し上げた。五月二十一日にはエ ジンバラ市のスカウトラリーに臨まれ、次のようなお言葉を述べられた。 「茲ニ予ノ豫テヨリ聞キ及ビタル、エヂンバラ市少年斥候隊ノ盛大ナル会合ヲ見 ル事ヲ得タルハ予ノ大ナル喜ビトスル所ナリ。予ノ倫敦ヲ去ラントスル前日、諸 子ノ最モ尊敬スル少年斥候隊長ベーデン・パウエル中将ハ親シク予ヲ訪ヒテ、此 ノ運動ガ世界同胞ノ精神ヲ以テ興リ、而シテ此ノ運動ノ成功ハ、ヤガテ世界永久 ノ平和ヲ建設スルニ貢献スルコト尠少ナラザルベキヲ告ゲタリ。予ハ斯ノ如ク美 シキ精神ヲ保持シタル本運動ガ、当然収ムベキアラユル成功ヲ贏チ得ルコトヲ切 ニ祈ルト共ニ、最近日本ニ於イテ同ジ目的ヲ以テ起リタル少年団運動ガ、時ヲ遂 ウテ今日此所ニ見ルガ如キ進歩ノ域ニ達シ、此ノ運動ノ目的トスル貴キ使命ヲ実 現スルニ協力センコトヲ望ムモノナリ。尚、今日諸子ガ蘇格蘭少年斥候隊々報ヲ 予ニ贈ラレシ厚誼ヲ深ク感謝ス。」 (注 倫敦=ロンドン  贏チ得ル=かちうる 蘇格蘭=スコットランド) 大正十年(一九二一)五月二十一日、英国エジンバラのボーイスカウト大集会に てボーイスカウト運動に賜った昭和天皇(当時は皇太子)のお言葉である。 これは当時の毎日新聞社出版の「御外遊記」(二荒・沢田両氏共著)の中から原 文のままのものである。 このとき、ベーデンパウエルは昭和天皇のお言葉に感激し、ボーイスカウトの最 高功労章「シルバー・ウルフ章」を昭和天皇に贈呈した。これは日本人の受賞と しては初めての事であった。(この功労章は、皇居の戦災で焼かれてしまったが、 戦後、再交付された。日本人として二人目の受賞者は佐野常羽である) 昭和天皇がエジンバラでボーイスカウトの訓練を視察したとき同行したのは、竹 下勇(海軍大将、後に日本連盟総長となる)、二荒芳徳(伯爵、後に日本連盟総 コミッショナー)、小山武(後に大日本海洋少年団理事長)の三名であった。 この三名が日本にもボーイスカウトを作るべきだとの意見が一致し、少年団日本 連盟の結成の契機になった。翌大正十一年四月十三日静岡市において全国少年団 代表者会議が開かれ、後藤新平を総裁(後、総長となる)として少年団日本連盟 が結成されたのである。 昭和天皇はよく側近の人々に「わが国のボーイスカウト運動に火をつけたのは私 だ」と冗談のように言われたそうである。
【昭和天皇とボーイスカウト年表】
一九二一(大正十年五月一七日)  ベーデンパウエル卿ご引見 ロンドン
一九二一(大正十年五月二一日)  スカウト大会ご親閲令旨を賜る              イギリス、エジンバラ市にて
一九二二(大正十一年七月十三日) 北海道ジャンボリー日本健児団ご親閲
一九二四(大正十三年八月二四日) 少年団野営大会ご視察 猪苗代湖畔
一九二八(昭和三年十月十日) 盛岡地方連盟スカウトご親閲
一九二八(昭和三年十二月六日) 少年団日本連盟代表スカウトご親閲
一九三〇(昭和五年六月二日) 少年団義勇和爾丸ご乗船
一九三〇(昭和五年六月三日) 静岡岳陽少年団ご親閲
一九四九(昭和二四年九月二四日) 第一回全日本ボーイスカウト大会ご台臨
一九六六(昭和四十一年四月二一日)香川連盟ボーイスカウト訓練ご台臨
一九七一(昭和四十六年八月一二日)第23回ボーイスカウト世界会議ご台臨
一九七二(昭和四十七年十一月五日)日本連盟創立五十周年記念式ご台臨
【御 製】
この岡に つどう子ら見て イギリスの 旅よりかへりし 若き日を思ふ ボーイスカウトの キャンプに加はりしときの話 浩宮より 聞きしことあり
昭和四十一年、香川連盟のボーイスカウト訓練をご覧になった。

★ジョン・サーマン  John Thurman 元ギルウェル・トレーニングセンター所長 広く世界のリーダートレーニング(指導者訓練)に貢献した。 一九五〇年「班長の手引」(The Patrol Leaders' Handbook)を出版。 「縛材訓練の基本」(Pioneering Principles)の著書もある。 昭和三十四年(一九五九)、第一回極東トレーニング・ザ・チームコースが開設 され所長として来日した。(那須野営場で開設され、七カ国四十六名が入所した。) また、昭和三十七年(一九六二)にもギルウェル所長として来日し、東京、大阪 で懇談会が開催された。 ウッドバッジ実修所以前の日本ギルウェルコースでは実修所の修了証はジョン・ サーマンのサインが入っていた。

★ソマーズ   Lord Somers    1887ー1944 B・Pに次いでイギリス連盟第2代目総長 一八八七年ワイト島で生まれた。彼の名付親は、詩人アルフレッド・テニソン卿 であった。 彼はチャーターハウス(B・Pの三十年あと)とオックスフォードのニューカレ ッジで教育を受け、第一次大戦中、近衛兵連隊に奉仕し数々の功績を残した。 また、一九二〇年から一九二六年まで、ヒヤフォード州の地区コミッショナーで あった。 一九三六年、B・Pはソマーズ卿を総長代理(副総長)とした。彼に会った人は 誰でも、その 独創力、誠実さ、親しみ深さ、そして実際的手腕に感嘆した。彼は オーストラリア西部の山々の8日間ハイクにスカウトたちを引率し、地図のない 地方や原生林を百十七マイルも歩いた。 B・Pはソマーズ卿を自分の後継者として指名し、一九四一年にソマーズは新し い総長になった。ソマーズはすでに命取りの病にかかっていたが、持ち前の粘り 強さで休むことをしなかった。このあとすぐエアースカウト、戦争奉仕スカウト が始められ、また彼は、戦後のスカウティングの必要性を説いた。 勇敢に耐えた数年の闘病生活の後、一九四四年、彼は立派なスカウト、立派なキ リスト教徒としてこの世を去った。

★竹下 勇 (たけした ゆう) 日本連盟(当時の少年団日本連盟)第三代総長 大日本海洋少年団連盟総長、海軍大将 昭和天皇が皇太子時代にヨーロッパ外遊の折り、昭和天皇はベーデン・パウエル にお会いになり、またエジンバラ市でボーイスカウトの訓練を視察され、たいそ う感心された。そのとき同行していたのが、二荒芳徳、小山武(後に大日本海洋 少年団理事長)と竹下勇であった。この3人が日本にもボーイスカウトを作るべ きだと意見の一致をみたことが〈少年団日本連盟〉結成の契機になったとされて いる。 昭和十二年(一九三七)二月に少年団日本連盟総長に推戴され 昭和二十年(一九 四五)五月、少年団日本連盟解散のため辞任する。 この間、昭和十六年(一九四一)、当時の各種青少年団体が統合され、文部大臣、 橋田邦彦を団長とする〈大日本青少年団〉が結成され、二荒芳徳と共に大日本青 少年団の顧問となる。

★ダン・ベアード Dan Beard (Daniel Carter Beard) 1850.6.21-1941.6.11  正しくは Daniel Carter Beard ボーイスカウトアメリカ連盟設立のときの National Commissioner 画家 James Henry Beard の息子として、一八五〇年、アメリカはオハイオ州のシ ンシナティで生まれた。すぐにペインズビルに移り、少年時代の大半をケンタッ キー州のコビングトンで過ごした。その町でマーク・トゥエインの小説の主人公 であるトム・ソーヤなどと同じ世界の中に育った。この時の体験が彼の一生の背 景となっている。 父と叔父が画家で、ベアードも子供の頃から絵が得意であったし、物を作ること が好きであったので、初めは土木技師になろうと思っていたが、どうしても画家 になりたくて、三〇歳の時にニューヨークへ行き Art Student League で学んだ (一八八〇より一八八四まで)。彼のイラストはすぐに認められ、数年で有名な イラストレーターになったが、彼の心をいつも悩ませていたのは、自分の少年時 代とニューヨークに住んでいる少年達との環境の違いであった。 ある日、濡れた歩道で眠り込んでいる新聞売りの少年の姿を見たベアードは決心 した。「アメリカの失われた少年時代を一生かけて取り戻そう。もう大人相手に 時間を無駄にしないで、少年達のために私の全エネルギーを使おう。」 それからは、少年向けの雑誌に次々と自筆のイラスト入り記事を書き始めた。そ の中でも「テントなしの野外キャンプ」か評判になり、それまで書いたいろいろ な記事を整理して一冊の本にまとめた。この本は「アメリカン・ボーイズ・ハン ディブック」であった。一八八二年に発売されると同時にベストセラーとなり、 その後も印刷発行され、この本を読んだ人々は、失われつつあったアメリカの自 然保護に目を向けるようになった。その中にはルーズベルト大統領もいた。 その後、一九〇五年にベアードは少年達のために「ザ・ボーイ・パイオニアズ」 という団体を創設したが、この団体は一九一〇年に「ボーイスカウトアメリカ連 盟」創立と同時にボーイスカウトへ合併した。ベーデンパウエルとベアードは友 人であり、ボーイスカウト設立と同時に、ベアードもボーイスカウトアメリカ連 盟設立のとき  National Commissioner として、初代総長シートンをたすけ、そ の後、九十一歳で死ぬまでアメリカ連盟に奉仕した。 当時のボーイスカウトアメリカ連盟の制服は彼のデザインによるものである。 また機関誌「ボーイズライフ」に次々と掲載される彼のイラスト入り記事は全米 の少年達に愛読され、彼は「アンクル・ダン」、「ダン・ベアード」の名で親し まれるようになった。 ボーイスカウト運動に貢献したベアードはただ一人の「ゴールデン・イーグル章」 の受賞者となり、その功績を記念してアラスカのマッキンレー山の隣の峰は「ベ アード山」と名付けられている。 著書 American Boys' Handy Book (1882)

★土光 敏夫 (どこう としお) 明治二十九年(一八九六)ー 昭和六十三年(一九八八)八月四日 ボーイスカウト日本連盟第四代総裁 明治二十九年、岡山で生まれる。大正九年、東京工業学校(現東京工業大学)を 卒業。 昭和二十五年、石川島重工社長。昭和三十二年、東芝社長。昭和三十九年、石川 島播磨重工会長。昭和四十八年、日本原子力事業社長。昭和四十九年、経団連会 長。昭和五十五年、第二次臨調会長。昭和五十八年、行革審会長。 「苟(まこと)、日ニ新タニ、日々ニ新タニ、マタ日ニ新タナリ」を座右銘とし ていた。 勲一等瑞宝章(昭和四十九年) 勲一等旭日大綬章(昭和五十三年) 勲一等旭日桐花大綬章(昭和六十一年,民間人初) (ボーイスカウトの経歴) 昭和五十四年三月十三日、日本連盟理事に就任 昭和五十四年五月二十六日、日本連盟総裁に就任、九年間 昭和四十六年、日本連盟功労章「たか章」受賞 享年九十一歳

★中野 忠八 (なかの ちゅうはち) 明治十七年十月十日 ー 昭和二十四年八月二十七日 日本のスカウト運動の偉大な先駆者であり、指導者訓練に尽力し、スカウティングの求道者であった。 薬学を専攻し、薬剤師として京都の五条にて大忠商店を営む。 久留島秀三郎(第五代日本連盟総長)の実兄でもある。 中野忠八の略歴 明治十七年  京都で生まれる。十月十日 大正四年 京都ボーイスカウトの前身である「京都少年義勇軍」を組織する。 大正十一年少年団日本連盟が創立され、理事となる。京都ボーイスカウトも        これに加盟する。 大正十三年 デンマークでの第二回世界ジャンボリーに参加。 大正十五年 九州地方実修所所長、以後各地で実修所所長を務める。 昭和二年 中央実修所少年部第2期に入所する。 昭和六年 オーストリアで開催された世界会議およびスイスでのローバームートに参加し、ギルウェル実修所のカブコースとスカウトコース        に入所し研鑽する。 昭和十二年 京都地方連盟が結成され理事長となる。 昭和十六年  戦時統制下、日本連盟の解散により京都地方連盟も解散。 昭和二十二年 終戦後、ボーイスカウトの再建に尽力する。 昭和二十三年 戦後初めての中国地方実修所所長を務める。 昭和二十四年 京都ボーイスカウト第一隊から第七隊まで結成する。 日本連盟の再建にともない京都連盟を結成し、理事長となる。 病にかかる。病床中、第一回京都キャンポリーあり。 八月二十七日死去。 昭和三十年 ボーイスカウト日本連盟より功労章「きじ章」が追贈された。  当時の日本連盟の機関誌「少年団研究」昭和十一年十二月号より昭和十三年六月号まで連載で「簡易測量法」を発表し、昭和十三年に旧日本連盟により単行本と して発刊された。中野忠八の五十三歳のときであった。中野忠八の死後、その業 績を末永く伝えようという全国会議の意を汲んで、昭和二十五年に中野忠八著  「簡易測量法」が再刊された。著者名を付した連盟本はこの「簡易測量法」以外 にはない異例の出版であった。 京都連盟の機関誌「こんでい」(昭和三〇年五月三日発行)に掲載された中野忠八の七回忌追悼式特集に掲載された中野忠八の言葉は次の通りである。 「鉛筆は自己の身を削り、身を滅ぼして他のためにつくす。かれは己の真の目的を他によって実現する。まことに尊いことだ。どうせ限りある生命なら、芯が折 れたり、失ってじゅうぶんな役をしなかったり、また、ムダ書きに終わってしま わぬように、書かれたことが、そして行ないが、さらに大きく他に及ぼしてよい 国作りとなりたいものだ。 われらの任務は大きくて重い。われらの目指す最終の目的は遠い。しかしわれらの背負っているのは何か?大きくて重い任務とは何か?それは日本国である。何 とすばらしい荷物ではないか。何と光栄ある仕事ではないか、今われらのたどっ ている道は健児道である。」

★中村 知 (なかむら さとる)  明治二十六年二月二十一日 ー 昭和四十七年三月 愛称は「ちーやん」  ペンネームは 東 野 通 義 (とうのつうぎ) ちーやんは明治二十六年(一八九三)二月二十一日、松山市に生まれる。父は福島県出身で陸軍士官、母は広島県の出身であった。広島高等師範学校付属中学校 在学中、イギリスに起こったボーイスカウト運動について北条時敬校長の視察談 を聞き感動し、生徒三〇人と「城東団」を結成し班長となる。 大正六年に東洋協会植民専門学校(現拓殖大学)の朝鮮語科を卒業し、韓国研究を志し韓国の農山村で生活をする。 大正八年、京都帝国大学文学部史学科に入学し、東洋史を専攻する。大正十一年京都帝国大学を卒業し、当時開校された大阪外語学校(現大阪外国語大学)に一 年在職するが、眼疾のため学界を去る。 大正十二年、大阪府立高津中学校(現高津高等学校)歴史科教諭になる。 高津中学校のクラブ活動の一貫として「スカウト部」を創設し、大正十三年から昭和十四年年までその隊長を務める。この頃の教え子には村田正雄総コミッショ ナー(故人)がいた。その間、昭和四年(一九二九)第3回世界ジャンボリー日 本派遣団員に選ばれ、イギリスへ行き、念願のギルウェル実修所を修了する。 昭和十四年、少年団日本連盟(現、ボーイスカウト日本連盟)の教務部長になり指導者養成を担当した。 昭和十六年、少年団日本連盟は青少年団体の統合により大日本青少年団に吸収合併され、大日本青少年団指導者中央錬成所所員主事となる。この大日本青少年団 には顧問に竹下勇(第三代総長)、二荒芳徳(後に日本連盟総コミッショナー)、 監事には三島通陽(後の第四代総長)などがその名を連ねていた。 戦後は、ボーイスカウト再建のために同志と運動する。 昭和二十四年、新設された広島市立児童図書館長になる。 昭和二十五年、日本連盟那須野営場開設により野営場長となる。 昭和三十三年、日本連盟事務局奉仕部長を経て昭和三十九年日本連盟嘱託になる。 この間、眼疾にもかかわらずボーイスカウト関係書物の翻訳書を五種刊行する。 永年の功績により、ボーイスカウト日本連盟功労章「はと章」、「やたがらす章」を受賞し、昭和四十一年には、勳五等瑞宝章を受ける。 昭和四十七年三月、東京の自宅にて逝去する。享年七十九歳であった。 主な翻訳刊行書は、「スカウティング・フォア・ボーイズ」、「パトロールシステムと班長への手紙」、「ウルフカブス・ハンドブック」、「ローバーリング・ ツウ・サクセス」がある。また、作詞・作曲した主な歌には  永遠のスカウト、山鳩、年長隊富士野営の歌、十種野営料理の歌、  青き新しきスカウト、月下の営火、火を絶やすな、 別れの営火、などがある。 著書の中でも「ちーやん夜話集」、「ちーやん歌集」は有名である。

★ノーマンロックウェル  Norman Rockwell (1894-1978) ボーイスカウト活動を描き続けたアメリカの画家 一九一二年(十八歳の時)ボーイスカウトの雑誌”Boys Life”の事務所を訪れて以来、ボーイスカウト活動を描く画家として活躍した。 彼の作品は、「ボーイズライフ」、ボーイスカウトカレンダー、ボーイスカウトハンドブックの表紙、切手のデザインなどに取り入れられた。 有名な作品に、一九七二年の”Can't wait" (ボーイ隊への上進を間近に控えたカブスカウトが待ちきれなくて、兄のだぶだぶのボーイスカウトのユニフォーム を着て、三指の敬礼をしている)や 一九六一年の"Homecoming"(長期キャンプか ら帰ってきたボーイスカウトの息子を父親、母親、カブスカウトの弟が出迎えて いる光景)などがある。 また、以前、日本のスカウトに用いられていた「ボーイスカウトポケットブック」の表紙のスカウトの横顔は一九二二年の彼の作品の一部をとったものである。 彼の最後の作品はボーイスカウトカレンダー"The Spirit of '76”である。 ノーマンロックウェルの業績に対して、アメリカ連盟は功労章「シルバーバッファロー章」を贈った。(過去、ベーデンパウエル、トンプソン・シートン、ダン ・ベアード、その他数人しか授与されていない)

★ヒルコート    William Hillcourt アメリカの世界的なBーP伝研究者。 「ベーデン・ポーエル伝」(The Two Lives of a Hero)の著者(レディB・Pと共著)   (ヒルコートの略歴) 1900 デンマークに生まれる。    その後ボーイスカウトになり、班長、副長、隊長となる。 1920 第1回世界ジャンボリーにデンマークの代表として参加する。 1926 新聞記者としてアメリカに移住する。ボーイスカウトアメリカ連盟の職員    になる。 1933 ボーイズライフの編集部員となる。 デンマークにて結婚。新婚旅行は自転車を利用して、ハンガリーの世界ジ    ャンボリーに参加。 1934 シフ・レザベーション所員、及び所長(一九五四年まで) 1948 アメリカで初めてのD.C.C.となる。 1964 イギリス連盟よりシルバーウルフ章を授与される。 1966 ギルウェル・キャンプチーフから5ビーズをおくられる。 (ヒルコートの主な著書) 1926 パトロール・リーダース・ハンドブック 1935 スカウトマスター・ハンドブック 1944 ボーイスカウト・フィールドブック 1960 ボーイスカウト・ハンドブック 1964 ベーデン・ポーエル伝(The Two Lives of a Hero) ※ヒルコートはBーPの足跡を訪ねて昭和四十一年の秋、日本各地を訪問したこ  とがある。

★二荒 芳徳  (ふたら よしのり) 明治十九年(一八八六)十月二十六日ー昭和四十二年(一九六七)四月二十一日 元日本連盟総コミッショナー 元少年団日本連盟理事長 元貴族院議員 元伯爵 明治十九年(一八八六)十月二十六日、旧宇和島(愛媛県)藩主伊達宗徳元侯爵 の九男として生まれる。学習院在学時代、院長乃木将軍の薫陶を受ける。東京帝 国大学法学部卒業。大学在学中に古神道を学ぶ。大正十年(一九二一)昭和天皇 が皇太子時代にヨーロッパ外遊の折り、宮内書記官として同行した折り、昭和天 皇はベーデン・パウエルにお会いになり、またエジンバラ市でボーイスカウトの 訓練を視察され、たいそう感心された。そのとき同行していたのが、小山武(後 に大日本海洋少年団理事長)と竹下勇(後の第三代総長)と二荒芳徳であった。 この三人が日本にもボーイスカウトを作るべきだと意見の一致をみたことが〈少 年団日本連盟〉結成の契機になったとされている。 大正十一年(一九二二)四月、少年団日本連盟が結成されると、二荒芳徳は初代 理事長に推挙された。 「一死辞せざれ、一生献ぜよ」が生涯を貫く彼の信念であった。 一九三一年(昭和六年)より一九三九年(昭和十四年)まで日本人として初めて 世界スカウト委員をつとめた。 昭和十六年(一九四一)、当時の各種青少年団体が統合され、文部大臣、橋田邦彦 を団長とする〈大日本青少年団〉が結成され、竹下勇と共に大日本青少年団の顧 問となる。 少年団日本連盟創立以来の理事長として、また戦後再建したボーイスカウト日本 連盟の総コミッショナーとして、たえずスカウト運動の基準の維持・向上と純正 な発展をはかり、日本のボーイスカウト運動を今日の姿に導いた功績は大きい。 昭和三十一年に日本連盟功労章「きじ章」を受賞 昭和四十一年に賜杯・銀杯一個を賜る。 昭和四十二年四月二十一日逝去 同四月二十四日連盟葬

★古田 誠一郎 (ふるた せいいちろう)  明治三十年六月二十七日ー ボーイスカウト日本連盟先達。 大阪連盟初代理事長(昭和二十四年)、日本連盟副総コミッショナーを歴任 明治三〇年六月二十七日、古田熊太郎の長男として和歌山市に生まれる。 若い頃、キリスト教徒となり洗礼を受けたが、父親から勘当された。 古田家の先祖は豊臣秀吉の家臣で古田織部。この古田織部は耶蘇教を信仰したため美濃(岐阜県)から京都に行き、京都で切腹している。お家は断絶。身内は 伊勢を通り和歌山に定住し帰農した。明治になり庶民にも苗字がつけられるよう になったので、先祖の名前をとって古田となった。 キリスト教徒となり洗礼を受けた古田誠一郎は父吉兵衛から「先祖は耶蘇教になったため京都で切腹した。おまえもこの頃教会へ行っているそうだな。今ここで 切腹しろ。」と日本刀を差し出された。「何だ、切腹もできぬのか、親でも子で もない。勘当だ、出て行け。」と言われ、古田誠一郎は友人や先輩からお金を借 りて神戸市中山手通り六丁目に三角形の家を借りた。そこで焼芋屋を始めた。土 曜日の晩になると遊びにきた近所の子供達を教会の日曜学校に連れて行った。教 会では宣教師のウォーカー氏と知り合い、イギリスのボーイスカウトのことを知 った。大正八年、古田誠一郎、ウォーカー氏らによって神戸ボーイスカウトが始 まった。 大正十一年、三角家の焼芋屋の前に一台の車が止まり、古田誠一郎は車に乗せられた。車の主は石橋為之介神戸市長であった。「マツタケおばけのような帽子を かぶった青少年活動をやってもらいたいので、この家で生活しなさい。」と言っ て、門構えのすごい家に案内された。「いや、私は三角家の焼芋屋で結構です。 」と断わったと言う。大正十二年九月一日十一時五七分に発生した関東大震災で は、焼け野原をさまよう子供達のことを思い、矢もたてもたまらず、直ちに三〇 〇〇人分のお菓子を用意すると、スカウトの制服を着用して船に乗り込んだ。東 京で三島通陽を訪ね、指示を受けたのち上野公園などで子供達に配ることができ た。 大正十二年、ボーイスカウト年齢以下の少年達のために、ウルフ・カブの組織を作った。「須磨向上会ウルフ・カブ」と名付け、これが日本で始めてのウルフ・ カブ(カブスカウト)であった。 昭和四年、第3回世界ジャンボリーに参加し、ベーデンパウエルと会見する。 昭和六年、聖ヨハネ学園園長に就任する。昭和十三年、イギリスのギルウェル実修所、少年部および幼年部課程を修了する。昭和十四年、アイスランドのレイキ ャビックにてベーデンパウエルと再び会見する。昭和二十二年、大阪府高槻市市 長に就任する。昭和二十五年、ボーイスカウト日本連盟の総局長に就任する。 その後、ギルウェル実修所よりDCCおよびAKLに任命され、中央実修所所長に就任する。昭和五十五年、ボーイスカウト日本連盟功労章「きじ章」を受賞。 古田誠一郎氏の愛称は「パーやん」。第3回世界ジャンボリーに参加したとき、佐野常羽団長より派遣団の会計係を命じられた。会計係の故をもって、船の事務 長の英語名パーサーに因んで「パーやん」と言うニックネームで呼ばれるように なった。このニックネームを付けたのは、同じ派遣団の一員であった中村知氏で あった。ベーデンパウエルに会見したことのある最後の日本人でもある。 また、数多くのスカウトソングを作ったことでも有名である。主なスカウトソングを列挙すると・・・ 旗あげの歌、いつも元気、ぼくの名は金太郎、ジャングルブックの歌、世界の総長、森の野営、われらの旗、めざめよ、リュックサックの歌 などがある。

★古田 伝一 (ふるた でんいち) ボーイスカウト日本連盟那須野営場の元野営場長、「デンジー」は古田伝一氏につけられた愛称、ニックネーム。 那須野営場の那須の与一のトーテムポールはデンジーこと古田伝一の力作である。 那須が誇るヒーロー那須与一、この地方に殺生石の名で残る金毛九尾のきつね、那須のいで湯のしるべとして残る白鹿、また、この森を住み家としているはと、 ふくろう、りす、うさぎをかたどった大トーテムポールである。一九五九年(昭 和三十四年)に除幕式が行われた。 「何時の頃からか野営場をあづかっているうちに、こう呼ばれていました。 森の奥深く営火場があり、原木を割った丸太の腰掛けが並んでいる。 杉木立の間からのうす日に、誰のいたづらか、丸太にデンジーのガンコオヤジのいたづら書きがうかびます。」これは古田伝一氏の著書「那須淡談」の冒頭  に書かれている文章である。昭和四十六年(一九七一)二月三日故人となった。

★ペスタロッチ Johan Heinrich Pestalozzi 1746.1.12-1827.2.17 ルソーと並び教育学史上著名なスイスの教育学者 愛と直感の方法による新教育により、世界の教育者に大きな影響を与えた。 特に児童を対象とする基礎教育の理念の探求に生涯を捧げた。 ペスタロッチが直接スカウティングに何か影響を与えたわけではないが、次のような話がある。 ベーデンパウエルの家でしばらくの間滞在していた佐野常羽が帰国し、古田誠一郎と会ったとき「古田さん、あなたはスカウティングを一生懸命されているが、 ベーデンパウエル卿がなぜボーイスカウトを始められたかをご存じですか。」 「わかりません。」 「ベーデンパウエル卿は三つの感銘をお受けになりました。 第一は、スイスにあるペスタロッチの墓石に刻まれている言葉『すべての己を捨 てて人のためにす』、第二はマリア・モンテッソーリの幼児教育です。 第三は極東の小さな島国、日本の精神と行動を兼ね備えた『茶道』です。」と古田氏に述べられたという。 スイスにあるペスタロッチの墓石に刻まれている言葉とは・・・・・・ 一八四六年、ペスタロッチの生誕百年記念祭にスイスのチューリッヒの郊外からやや離れたビルという農村に新しい墓碑が建てられた。その墓碑の銘はペスタロ ッチの、人および教師としての偉大な八十一年の生涯を簡潔に、また適切に記し て次のように表されている。 『ここにハインリッヒ・ペスタロッチ眠る、 一七四六年一月十二日チューリッヒに生まれ、 一八二七年二月十七日ブルックに没す ノイホーフにおいては貧しきものの救済者、 リーンハルトとゲルトルートの中では人々に説き教えしひと、 シュタンツにおいては孤児の父、 ブルクドルフとミュンヘンブックゼーとにおいては国民学校の創設者、 イベルドンにおいては人類の教育者、 人間・キリスト者・市民、 すべての己を捨てて人のためにす、 彼の名に祝福あれ ! 』

ベーデンパウエルはこの碑文から、すべては他人のためにつくし、己を捨て、自 分は何物も取ろうとしなかったペスタロッチの人類愛に感銘したのである。 ペスタロッチの代表的な著書には次のようなものが有名である。  「隠者の夕暮」(Abendstunde eines Einsiedlers 1779)  「リーンハルトとゲルトルート」、「シュタンツだより」などがある。   ※「隠者の夕暮」、「シュタンツだより」長田 新訳 岩波文庫

★ベーデン・パウエル  Robert Stephenson Smyth Baden-Powell ボーイスカウト運動の創始者 (1857.2.22-1941.1.8) 一八五七年(安政四年)二月二十二日、イギリス・ロンドン、ハイドパークの近くに生まれる。父はオックスフォード大学教授。母(ヘンリエッタ・グレース 1824-1914)はイギリス海軍の名門スミス家の出で、良妻賢母であった。ベーデン・パウエルは両親の八番目の子供であった。四歳で父を失い、母の愛情のもとで 育った。絵画、文筆の才能があったが、左利きであった。十三歳でチャーターハ ウスに入学し、十八歳の時、オックスフォード大学の受験に失敗し、一八七六年 十九歳の時、イギリス陸軍の騎兵士官の選抜試験を受け、七一八名のうち五番の成績で合格し、騎兵士官候補生となった。このようにして、ベーデンパウエルの 軍人生活が始まった。 一八六七年、若い陸軍の将校としてインドへ行った。そのとき、偵察活動、地図の作り方及び報告の仕方を研究した。これらの研究は、少年を訓練する際に非常 に役にたった。インド戦線、アフリカ戦線をはじめ、一八九九年のボーア戦争、 マフェキングの包囲戦をへて、マフェキングの英雄としてイギリス国民から祝福 を受けた。マフェキング包囲戦では少年を伝令として使ったが、少年兵の訓練法 の中に少年を訓練するための基本的な考え方が見受けられる。ベーデンパウエル の訓練を特に熱心に受け、活躍した少年兵に対し、ベーデンパウエルは North  compass pointをもとに作られた章を授与した。現在の各種のスカウト章は、それと大変よく似ている。一九〇七年に五〇歳で軍人生活を退くまでに、軍人生活の 中で、人間にとって観察力、推理力の重要性を感じ、これが後のスカウティング の班制度と進歩制度のヒントになった。ベーデンパウエルはアフリカでは、太陽 と雨から身を守るために、常につばの広い帽子をかぶり、陸軍技師が使っている 長い杖を持ち歩いていた。四十二歳の時「Aids to Scouting(斥候の手引)」を 出版し、十万部が学校で用いられ、いずれ少年向けのものを書かねばならないと 思った。軍隊を退役する頃、イギリスは大不況で、国勢は衰え社会は悪化の一途 をたどっていた。特に少年の非行が多く、なんとかせねばならないと思っていた。 一九〇七年五月五日、陸軍中將として退役後、ベーデンパウエルは第2の人生を歩むことになる。 一九〇七年七月二十九日、二十一人の健康な少年を選び出し、ブラウンシー島での「実験キャンプ」を実施し(実際に参加したのは二〇名の少年)、その翌年 一九〇八年一月に「スカウティング フォア ボーイズ」創刊号を発刊した。これは隔週発行の雑誌で、1冊4ペンスであった。創刊された直後から少年達の大 ベストセラーとなって、少年達は、その方法にしたがって自分達で班を作り、ボ ーイスカウトとしての活動を始め、現在のように世界の主要なボランティア活動 に発展した。 以下、年表で示すと・・・ 一九〇八年(明治四十一年)一月二十八日、ロンドンにスカウト運動の事務所を置く。 一九一一年(明治四十五年)、日本の東郷元帥、乃木大将と会見する。 一九一二年(大正元年)世界旅行の際、四月十六日、日本を訪問する。十月三〇日、オレブ・セントクライヤー・ソアムス女史と結婚。 一九一六年(大正五年)ガールガイド(日本のガールスカウト)の組織が生まれる。夫人がその委員長となる。     「ウルフカブス・ハンドブック」出版。ウルフカブ(日本のカブスカウト)が発生する。 一九一七年(大正六年)「ガールガイディング」出版。 一九一九年(大正八年)指導者訓練のために、ギルウェルパークにトレーニングセンターを開設。その後、世界の指導者訓練のメッカとなる。 一九二〇年(大正九年)第1回世界ジャンボリー開催。少年達より「チーフスカウト・オブ・ザ・ワールド」(世界の総長)の栄号を贈られる。 「Aids to Scoutmastership」(隊長の手引)を発刊。 一九二一年(大正一〇年)五月十七日、午後六時三〇分、昭和天皇とロンドンで会見。ベーデンパウエルは昭和天皇にイギリスボーイスカウトの最高栄     誉である「シルバー・ウルフ章」を献上。     準男爵になる。 一九二二年(大正十一年)「ローバーリング・ツゥ・サクセス」を発刊。 一九二三年(大正十二年)ビクトリア大十字勲章を授けられる。 トロント、マックギル、オックスフォードの各大学より法学博士号を贈     られる。 一九二七年(昭和二年)一九二八年度のノーベル平和賞の最適人者として、ノー     ベル委員会に推薦される。結果としては授賞されなかった。 一九二九年(昭和四年)男爵となる。(Lord Baden-Powell of Gilwell) イギリスの習慣として、爵位の後に地名をつけるので、多くの人は「      マフェキングの英雄」として当然マフェキングとすべきだと主張した      が、ベーデンパウエルはボーイスカウト運動の性質から「ギルウェル」     とした。ロード・ベーデンパウエル・オブ・ギルウェル 一九三一年(昭和六年)ケンブリッジ大学より法学博士号を贈られる。 夫人は「世界ガールガイド総長」に推される。 一九三九年(昭和十四年)ノーベル平和賞が贈られることに決定する。しかし、     皮肉なことには、一九三九年にはヒットラーの進撃でノーベル平和賞は     受賞者なしとなる。 一九四一年(昭和十六年)一月八日、午前五時四十五分、東アフリカのケニアの     ニエリ野荘にて、一生を終わる。(享年八十四歳)     ベーデンパウエルの墓碑はロンドンのウエストミンスター寺院の中にあ     り、ボーイスカウトとガールガイド(ガールスカウト)の旗に飾られて、     ここを訪れる人々に微笑みかけている。
※(Baden-Powellの発音について)  日本語での表記は「ベーデン・パウエル」にしようということが昭和三十五年、  日本連盟事務局で定められている。「ベーデン・ポーエル」と表記した書物も  あるが、一応、ベーデン・パウエルに統一されているようである。  Baden-Powellの発音であるが、これはパウエルよりもポーエルに近い。このこ  とはベーデン・パウエル自身が次のように書いている。 Man,Nation,Maiden. Please,call it Baden. Futher,for Powell. Rhyme it with Noel. ( The Scoutmasters Guide from A to Z )
Man,Nation の a のように エ の音で BadenをMaiden のように発音して下さい。 さらにPowellについては、Noelの発音がもつのと同じ韻(イン)をふむこと。 ベーデン・パウエルは Maiden Noelのような感じで発音するのが一番正しいと彼 は言っている。日本語で、できるだけ忠実に表すとすれば「ベイデン・ポーエル」 になる。レディー・ベーデン・パウエルが日本を訪れたとき、吉川哲雄氏が正し い発音を尋ねたところ、やはり Baden は Maiden のように Powell は Noel の ように発音するということであった。Maiden Noelとは(乙女のクリスマス祝歌) という意味である。
【参考】 ※ベーデンパウエルの父 BーP教授   Professor B-P Oxford の Oriel Collage を卒業。オックスフォード大学教授。自然科学の知  識が豊富で、特に光学と放射線学研究の物理学者であった。 1824 a Fellow of the Royal Society. 1827 Savilian Professor of Geometry(Oxford) 1850 Royal Commission member. 一八三七年 先妻 Charlotte Pope と結婚し、一男三女をもうけるが、一八四四  年に先妻が死去した後、Henrietta Grace と再婚する(一八四六年)。 七男三女をもうけ、ベーデンパウエルは六男として生まれるた。 一八六〇年死去、ベーデンパウエルの四歳の時であった。 ベーデンパウエルの感じた父・BーP教授は神学者で熱心なクリスチャン。神  を愛し、男性的で自己の信念に忠実であった。ユーモアに富んだ熱心な自然研  究家。他人に親切で家族を愛した人間であった。 ※ベーデンパウエルの母  Mrs. Henrietta Grace Admiral William H. Smythの長女として生まれ、BーP教授と結婚したとき先  妻の子供が四人あり、BーP教授の死去の時、七男一女があった。早教育の実  施、野外生活の観察重視の教育で子供を育て、家庭を守りよき母であった。 ベーデンパウエルのスカウティング創始にあたり、陰のよき助言者であった。 一九一四年(大正二年)九十歳で死去。 ◎ベーデンパウエルの兄弟姉妹 @長男 Sir Henry Warignton Smyth Powell B-P (1847.2.3-1921) knight A二男 Sir George Smyth B-P (1847.12.24-1898) Baronet B三男 Augustus (1849.5 十三歳で死亡) C四男 Francis Smyth B-P (1850.7-1933) 弁護士、画家、彫刻家 D長女 Henrietta Smyth B-P (1851.10 三歳にならずして死去) E五男 John Penrose Smyth B-P (1852.12 夭死) F二女 Jessie Smyth B-P (1855.11 生後八か月で死去) G六男 Robert Stephenson Smyth B-P (1857.2.22-1941.1.8) H三女 Agnes Smyth B-P (1858.12-1945.6.2)初代 Girl Guide の会長 I七男 Baden Fletcher Smyth B-P (1860.5-?) 少佐

★松方 三郎 (まつかた さぶろう)   明治三十二年(一八九九)八月一日ー昭和四十八年(一九七三)九月十五日 第六代日本連盟総長(昭和四十六年七月より昭和四十八年九月まで) 日本連盟国際コミッショナーなど歴任 元公爵 松方正義の十三男として明治三十二年(一八九九)八月一日に生まれる。 松方家の先祖は武蔵(埼玉県)の豪族河越重頼(かわごえしげより)の四男重時 で、建久七年(一一九六)島津忠久の西下にしたがい薩摩へ移った。戦国時代の 松方伊豆は、関ヶ原の合戦で名をあげた島津義弘に仕えた。幕末、正義が生まれ たときは最下級の武士であったが、正義が薩摩藩の島津久光の従者になったのが 立身出世のきっかけとなった。のち正義は薩摩藩の船奉行となった。明治になり、 日田県(大分県日田市)知事から大蔵省の租税助に抜てきされ、明治四年には大 蔵大丞となり、明治十四年大蔵卿に登用され、大蔵大臣を十六年も務める日本の 財界の最大の功労者となった。明治三十三年には元老に列し、大正十一年には公 爵を授けられた。松方正義の長男巌(松方三郎の長兄)は第十五銀行の頭取を務 めたが、華族の銀行であった第十五銀行は昭和二年に崩壊した。倒産前に頭取を 務めていた松方巌は責任を感じていっさいの公職を辞し、華族の最高位公爵まで も返上した。松方正義の次男は正作といい、夫人は三菱の岩崎弥之助の長女であ る。三男の幸次郎は川崎造船の社長になったが、むしろ松方コレクションのコレ クターとして有名である。モネ・ロダンの収集では世界的であり、現在は国立西 洋美術館に引き継がれている。また正義の孫娘(松方三郎の姪)春は元駐日大使 でハーバード大学教授ライシャワー夫人である。 このように松方家は名門であり、松方三郎は松方正義の十三男として育った。 大正十一年(一九二二)京都帝国大学経済学部卒業後、満鉄に入社する。その後、 電通・共同通信社専務理事などを歴任。日本山岳協会会長としても有名であった。 ボーイスカウト日本連盟では国際コミッショナーとして国際的に活躍する。 昭和四十三年(一九六八)ボーイスカウト世界広報委員会に出席。 昭和四十四年(一九六九)世界スカウト会議に出席し、世界委員に当選する。             以後、一九七五年まで世界委員をつとめた。 昭和四十六年(一九七一)第六代日本連盟総長に推戴される。 総長の推戴式は昭和四十六年(一九七一)七月四日、東京・代々木の明治神宮参 集殿にて行われた。その年、一九七一年は第十三回世界ジャンボリーが静岡県富 士宮市朝霧高原で開催され、野営長の松方三郎総長の開会宣言により、「相互理 解」のテーマで世界八十七カ国、二万三〇〇〇名のスカウト、スカウターのジャ ンボリーが始まった。

★三島 通陽 (みしま みちはる)   明治三十年(一八九七)一月一日ー昭和四〇年(一九六五)四月二〇日 ボーイスカウト日本連盟第四代総長(昭和二十六年二月より昭和四〇年四月まで) 明治三〇年一月一日、東京麻布で生まれる。父は子爵三島弥太郎、母は侯爵四条 隆謌の三女加根子。幼少の頃は病弱で病床に就くことが多かった。青年時代は文 学への傾倒を深め、「章道」のペンネームで「中央公論」などに創作を発表した。 のちに文藝春秋・東宝劇場の重役を務めた。二十二歳で父弥太郎が死去し、子爵 となる。二十三歳の時「弥栄ボーイスカウト」を始める。二十五歳の時、少年団 日本連盟を創立するに当たり、副理事長に選任される。この後、後藤総長、二荒 理事長の信任を得て組織確立の陣頭に立つ。第2回世界ジャンボリー、第3回国 際会議に参加する。また、指導者訓練、さらに指導用の資料・文献の著述及び翻 訳に努める。二十八歳、ローランドフィリップス著「パトロールシステム」を翻 訳する。 二十九歳、ベーデンパウエル著「少年団指導者教範 (エイズツウ スカウトマスターシップ)」編 集。三十二歳、貴族員議員に当選。その後、タイ、イタリアを訪問。大正八年、 パリで第一次世界大戦の講話会議が開かれたとき、代表牧野伸顕(伯爵)の随員 として渡仏した。また著書も多数出版する。四十八歳、文部政務次官に任ぜられ た。 戦後はボーイスカウト再建のために努力する。指導者養成のため、自ら全国を回 って指導者講習会を実施する。五十二歳、戦後初めての日本連盟理事長に就任。 中央実修所所長として指導も行う。同年、ボーイスカウト運動に専念するため参 議院議員には立候補しないことを表明する。また、栃木県西那須野町に所有の土 地家屋(三島家の別荘)を日本連盟に譲渡する。これが現在の那須野営場である。 昭和二十六年、五十四歳の時、日本連盟の第四代総長に就任する。同年、第七回 世界ジャンボリー及び第十三回世界会議に参加し、さらにイギリスのギルウェル 実修所を修了する。 昭和二十八年、五十六歳、日本連盟より功労章「きじ章」を贈られる。 昭和三十四年、藍綬褒賞を授けられる。昭和三十六年、イギリス連盟より功労章 「ブロンズウルフ章」を贈られる。 昭和四〇年、毎日新聞社の求めに応じ「スカウト十話」を執筆連載するが、これ が絶筆となった。同年四月二〇日二十時五十分逝去。四月二十四日、ボーイスカ ウト日本連盟葬を執行した。

【三島家の歴史】 薩摩藩士 三島家は、「三島通庸伝」(昭和八年刊 みしまみちつね 三島通陽の祖父) によると、弘安四年(一二八一)の蒙古襲来の時、伊予(愛媛)の海賊を率いて 奮戦した河野通有(みちあり)の子孫であるという。河野氏は土佐(高知)の長 曾我部氏に圧迫されて次第に勢力を弱め、天正十三年(一五八五)の豊臣秀吉の 四国征伐で滅ぶのだが、その分家の四郎親清(しろうちかきよ)の系統が三島を 姓とし、薩摩(鹿児島)で血統を伝えてきたという。 三島家は代々、鼓の家業をもって島津家につかえ、通庸も四、五歳のときから父 通純の教えを受けた。通庸が十九歳のとき、三つ下の弟、伝之丞が友より鼓打ち の家業をはずかしめられ、発作的に切腹した。十六歳の伝之丞は、作法通りみご とに割腹したという。この事件で通庸の父通純は精神異常をきたし、まもなく世 を去った。 (祖父 三島通庸について) 三島通陽の祖父通庸は戊辰戦争では小荷駄方監督をつとめ、その後、薩摩の民事 奉行、日向(宮崎)都城の地頭などつとめるが、都城時代領内の不平分子の騒動 を鎮圧した。 明治三年、大久保利通の配慮で、東京府権参事に任官し、ついで教部大丞から酒 田県令(現在の知事)となり、明治十五年福島県令となった。ここで「福島事件」 が起こる。それは県令三島通庸が会津の三大道路を作るべく十五歳から六十歳の 男女に毎月一日の夫役(勤労奉仕)を強制したが、河野広中を中心とした福島県 自由党が反対闘争の気勢をあげた。明治十五年十一月、弾正ケ原に結集した数千 の反対農民に対し、三島県令は抜刀した警察官を投入してこれを鎮圧した。また、 明治十六年、三島通庸は栃木県令を兼任したが、福島事件で弾圧された自由党員 が爆弾を製造し三島通庸の暗殺と栃木県庁の襲撃を企てた。しかし事前に警察が 一味を検挙した。 明治十八年、三島通庸は初代の警視総監に就任し、明治二十年、悪名高い保安条 例が全国に発布されるや東京では一〇〇〇名の警官を動員して尾崎行雄や片岡健 吉ら自由党員数百人を東京より追放した。政府部内でも三島警視総監のやり方が 過酷であるとの批判の声があがり、宮内省の井上毅(こわし)がそれを口にした ところ三島通庸はいきなりかっとなって椅子をふりあげたという。徳富蘇峰は彼 を弁護して「三島通庸君、六尺の身をもって明治政府の長城たり」と言った。 三島通庸はこれまでの業績により子爵を授けられた。 (父 三島弥太郎について) 三島通陽の父 弥太郎は「不如帰」(ほととぎす)の川島武夫のモデルで、大山 巌公爵の娘信子と結婚したが半年で離婚し、四条隆謌(公卿、候爵)の三女加根 子と再婚した。弥太郎はアメリカで昆虫学を学び北海道庁の技師をつとめたが、 のち横浜正金銀行(現在の東京銀行)をへて日本銀行総裁になった。  

【参考】 那須野営場について ボーイスカウト日本連盟の常設野営場である。 昭和二十五年十月に、栃木県西那須野町三島にある、第四代総長三島通陽氏の所 有地を購入しておもに指導者訓練のための野営場として利用されている。 この野営場は、その昔、那須開墾の人と地元の人たちから尊敬された子爵三島通 庸(みちつね 三島通陽の祖父)の思考発想の土地で、「わしの開墾事業は人間 をして、善良な人間作りにある。」と常に語られ、開墾の心は、土と人の愛情あ る結び付きであるとされた。那須野営場は、このように由緒ある歴史の上に鋭意 スカウト道を織りなした幾多の先輩指導者の尊い足跡の結集の地であり、スカウ ト育成、指導者の養成に、心の道場として名実ともにふさわしい最適の場であり、 また杉や松の古木におおわれ、自然に恵まれた環境である。敷地は約一万六〇〇 〇坪である。一九五七年よりこの森でギルウェルコースが始まった。 晩年の三島総長はこの森を訪れることを非常に楽しんでおられ「ここを基地にし て、その道の研鑽を重ね、胸にスカウト道の花粉を宿して去って行く。また来る。 そのスカウト群像が、年々ふえて森にたむろする。この地を開いてくれた祖先に 対して、名によりのはなむけである。」と総長がときどきそんな述懐をもらされ た。そのときの表情が、いかにもうれしそうであった。                  (古田伝一著「那須淡談」より) 東北本線「西那須野駅」ホームには「ボーイスカウト那須野営場まで北西に2キ ロ、車で一〇分」と掲示されている。駅を出ると直線道路で有名な「塩原街道」 があり、2キロほど進むと「三島農場」のバス停があり、道路の左側に那須野営 場の入口を示す、道しるべが立っている。 野営場内には有名な那須与一のトーテムポールがあり、コース広場、スカウト広 場、カブ広場、青雲観、白雲観、宿泊研修棟、営火場がある。以前はカブ広場に 古い本館があったが、現在その建物は西那須野町の文化財として移転している。    〒329-27 栃木県那須郡西那須野町西三島七丁目三三四 ボーイスカウト日本連盟那須野営場  TEL 02873-6-0708

★村田 正雄 (むらた まさお)   大正三年三月二十四日 ー 昭和六十三年五月十日 元ボーイスカウト日本連盟総コミッショナー 大正三年三月二十四日、大阪で生まれる。 大正十二年、大阪清堀第一少年団に入団。昭和二十四年の大阪連盟結成と同時に 理事に就任し、その後、県コミッショナー、また昭和四十九年から理事長として、 大阪連盟の発展に尽くした。 ちーやん(中村 知)の教えを受けた指導者の一人である。 日本連盟では、昭和三十二年に中央審議会議員に就任以来、日本連盟理事、指導 者養成委員長、トレーニングチーム・ディレクターとして指導者の養成に力を注 いだ。副総コミッショナーを経て、昭和五十五年、総コミッショナーに就任し、 逝去の日まで、日本連盟の運営とわが国スカウト運動の純正な発展のために情熱 を傾けた。 特筆される業績は、指導者養成における尽力である。指導者養成委員長、ディレ クターとして、また多くの指導者養成コースの所長としての奉仕を重ね、国際面 では、ボーイスカウト世界プログラム委員、世界スカウト会議、アジア・太平洋 スカウト会議等に出席すると共に、ボーイスカウト世界機構がわが国で開催した 第十九回および第二十八回国際トレーニング・ザ・チームコースの所長を務めた。 昭和六十三年五月一〇日逝去 享年七十四歳 大阪府知事表彰(昭和四十三年五月) 藍綬褒章(昭和五十二年十一月) 勲四等旭日小綬章(昭和五十九年四月) 従五位に叙せらる(昭和六十三年五月一〇日) 日本連盟功労章「きじ章」を追贈(昭和六十三年五月一〇日)

★村山 有 (むらやま たもつ) 明治三十八年ー昭和四十三年十二月三十一日 日本連盟常任理事、広報委員長、東京連盟副連盟長を歴任 戦後初めての東京連盟理事長を歴任 明治三十八年、在米日本人の2世としてアメリカのシアトル市に生まれる。 少年時代は祖国日本で、美しい自然や山河にかこまれて過ごした。この少年時代 に熱烈な祖国愛と質実豪快な性格が養われた。 サンフランシスコのゴールデンゲートカレッジを卒業し、日系新聞社の記者とし て第一線で活躍しアメリカ各界に知られていた。 昭和十一年に日本に在住し、同盟通信社に入社し、国際性のあるニュースを提供 し、敗色濃い日本の為に日本人としての責務を果たした。 敗戦後の連合軍占領下では有利なアメリカ市民権を放棄し、連合軍指令部に働き かけて、常に日本の国を理解させることに務め、対日政策の緩和に尽力した。 混乱した戦後の社会情勢の中にあって、日本の復興は青少年の健全育成にありと 考え、大日本少年団連盟竹下総長の意志を受けてスカウト運動の再建に全力を尽 くした。ボーイスカウト運動の許可の申請に、連盟規約の制定のためにスカウト 隊の結成のために、多忙なる本務(ジャパンタイムス社会部長)をさいて、活躍 した。 昭和二十四年、ボーイスカウト全国大会の開催を契機として日本のスカウト運動 の方向が定まると、東京連盟の充実に努力し、今日の東京連盟発展の基礎を築い た。戦後初めての東京連盟理事長。 得意の語学を駆使し、世界ジャンボリー、世界会議に出席してスカウトの国際関 係の確立に務めた。 戦後の日本連盟を確立した最も功績のある指導者の一人であるが、独特の人柄は 相手にお構いなく議論もし、そのため敵も作るが、彼の一徹さはスカウティング への熱意とバイタリティにつながり、今日のわが国スカウト運動を築いた。 昭和四十一年(一九六六)、レディ・BーPとウイリアム・ヒルコートの共著で ある「ベーデン・ポーエル伝(THE TWO LIVES OF A HERO)」を翻訳してボーイス カウト日本連盟から出版された。 第十三回世界ジャンボリー(朝霧高原)準備委員会常務委員として準備活動をす るなか、昭和四十三年十二月三十一日午前九時三〇分、香港へ向け航海中、心筋 梗塞のため六十三歳で逝去された。 葬儀は昭和四十四年一月十二日築地本願寺にて、東京連盟葬をもって行われた。 昭和四十四年一月十一日、故村山 有氏は、ボーイスカウト運動の発展に尽くす と共に、社会教育の振興に寄与し、新聞人として、わが国及び海外事情の紹介に 寄与した功績により、「従五位勳四等瑞宝章」が追贈された。

★モンテッソーリ  Maria Montessori 1870.8.31-1952.5.6 イタリアの教育家、女医。 ローマ大学で医学と心理学を学び、異常児教育に従事した。 一九〇七年ローマに Casa dei Bambini (子どもの家)を設立し、幼児達をいわ ゆる「モンテッソーリ法(The Montessori Method)」という理論によって教育し大 きな成果をあげた。子ども達に自由と整えられた環境を与え、「モンテッソーリ 教具」という感覚訓練の教具を使用させて子どもの自発活動を重視する教育を行 った。著書に「モンテッソーリ教育(TO EDUCATE THE HUMAN POTENTIAL)」があ り、世界の幼児教育に多大の影響を与えた。 ボーイスカウトの創始者ベーデンパウエルもスカウト運動を始めるにあたってモ ンテッソーリ教育の影響を受けている。 次のような話がある・・・・・・・ ベーデンパウエルの家でしばらくの間、滞在していた佐野常羽が帰国し、古田誠 一郎と会ったとき「古田さん、あなたはスカウティングを一生懸命されているが ベーデンパウエル卿がなぜボーイスカウトを始められたかをご存じですか。」 「わかりません。」 「ベーデンパウエル卿は三つの感銘をお受けになりました 第一は、スイスにあるペスタロッチの墓石に刻まれている言葉『すべてを他人の ためにし、己には何ものも』、第二はマリア・モンテッソーリの幼児教育です。 第三は極東の小さな島国、日本の精神と行動を兼ね備えた『茶道』です。」と古 田氏に述べられたという。 このことについて古田誠一郎氏は『あなたとこども』一九七四年・創刊号で次の ように説明している。  『ボーイスカウトとモンテッソーリ教育』 「ボーイスカウトの教育運動はイギリスのロバート・ベーデン・パウエル卿が創始したことは周知の事実である。そして、この元軍人が政治にも軍事力にも頼ら ず、ひたすら少年を通しての平和運動に半生を捧げ、一九三九年には、ヒットラ ーの電撃作戦が起こったため取りやめにはなったものの、その年のノーベル平和 賞の受賞者に決定していたことを知る人も多い。  しかし、そのボーイスカウトの訓育方法、俗にいう中味がわれわれ幼児教育関係者に最も縁の深い、あのモンテッソーリ教育法とほとんど同じだということに 気のついている人は、余り多いとはいえないようである。 スカウト教育の内容は、その前身ともいうべきボーイズ・ブリゲイドから見れば一九〇七年のブラウンシー島のキャンピングを契機として大きな変革が認められ、 一九〇八年にベーデンパウエルによって書かれた「スカウティング・フォア・ボ ーイズ」がその後の基本的テキストということができる。 続いて、この運動の指導者養成の必要が痛感されて、一九一九年、マクラーレン家から寄贈を受けたロンドン郊外エピングの森にあるギルウェルパークにトレー ニング・センターを設けて、今日も変わらず指導者養成のコースを続けている。 このスカウト教育とモンテッソーリ教育の関係には、年代的にも、不思議なくらいの符号がみられる。  モンテッソーリのカサ・ディ・バンビーニ(Casa dei Bambini 子どもの家) がローマ・サンローレンゾに創設されたのが、ベーデンパウエルの最初のキャンピングと同じ一九〇七年である。 モンテッソーリ法国際訓練コースの発会式のため、モンテッソーリ女史自身が ロンドンに出向いたのが、ギルウェルでのコース開設と同じ一九一九年である。 それがさもありなんと思われしも、この2つの教育運動に切っても切れぬつなが りを物語る事実を、筆者は、スカウト教育の恩師佐野常羽先生から承ったことが ある。佐野先生は日本赤十字社の創立者佐野常民氏の後嗣であるが、少年の教育 に使命を感じ、海軍少将の地位を自ら捨て一九二四年に前記ギルウェルコースを 出た日本人としては最初の受講者である。 その翌々年、一九二六年に、佐野先生はボーイスカウト国際会議のため渡英して、ベーデンパウエル卿の自宅に一週間滞在された。そのある日、会食後団らん の席上「佐野さん、私はイタリアのモンテッソーリの幼児教育の方法に年齢の考 慮を加えて、スカウト教育を組み立てたのですよ」と述べ、卿が述懐されたとい う。なるほど、そうだとすると、スカウト教育の年齢縦割の班制度、観察推理の 自発活動、潜在的能力を伸ばそうとする感覚訓練、その他すべてにおいて両教育 運動の一致点を見いだすことが容易である。 童話家の久留島武彦先生も大正三年(一九一四年)に、小西重直博士の序文を得た今西嘉蔵氏の著作「モンテッソーリ女史と教育の原理および実際」を読まれ て、自分の幼稚園教育に大いに活かしたい旨の書き込みをしておられ、それが後 に同先生がボーイスカウト運動に貢献される動機ともなっている。 なお、同先生の早厥幼稚園に日本モンテッソーリ協会の初代会長であり、幼児 教育研究所長の鼓常良先生の夫人がお若い頃に就職しておられたことも偶然とは 申しながらご縁の深いことである。 何にしても、モンテッソーリもベーデンパウエルも考え、実践されたように、 すべての子どもひとりひとりが、その心の奥底に持っているあの純真なヒューマ ニティーを呼び覚まし、燃え上がらせて、平和な新しい世界をつくる開拓民に自 らなろうとする子どもたちを助けることに力を尽くしたいものである。」 小西重直博士の序文を の鼓常良先生の夫人がお若い頃に就職しておられたことも偶然とは 申しながらご縁の深いことである。 何にしても、モンテッソーリもベーデンパウエルも考え、実践されたように、すべての子どもひとりひとりが、その心の奥底に持っているあの純真なヒューマ ニティーを呼び覚まし、燃え上がらせて、平和な新しい世界をつくる開拓民に自 らなろうとする子どもたちを助けることに力を尽くしたいものである。」

★吉川 哲雄 (よしかわ てつお)   昭和四十二年(一九六七)十二月二十三日 逝去 享年六十八歳 日本連盟中央審議会議員 日本連盟事務局嘱託等歴任 愛称「哲ちゃん」 大正十二年(一九二三)中村知の主宰する大阪高津中学校(当時)のボーイスカ ウトに関係し、一徹な性格から精力的な研究を始めたが、大正十四年の山中湖畔 での指導者中央訓練所に入所して、佐野常羽所長からギルウェル直伝のボーイス カウト教育を伝授されて、人生航路が定まった。 大正十五年五月に山口季次郎氏のお世話もあって、上京を決意し、職を投げうっ て佐野常羽の指導者養成の仕事に、助手として専念し、実修所細則づくりに参画。 同年七月二十二日からの日光の少年部第一回中央実修所、八月三日からの幼年部 第一回中央実修所、八月十三日から開設された地方実修所少年部河鹿渓道場へ  と、佐野常羽所長の所員として側近奉仕をした。その期間中の奉仕ぶりは「騎士 に連れ添う従者」のようであった。彼の佐野常羽に対する傾倒ぶりは、不二健児 蕃社での接心だけでは満足できず、ついに佐野邸の書生部屋に住み込んで、日夜 薫陶を仰ぐに至った。スカウティングの虜となり佐野常羽の直信の一人と自認し、 陶酔した時代があった。 彼のスカウティングに対する情熱は昭和二年、彼の二十八歳の時、ボーイスカウ トを教育学的に研究したいと考え、日本大学文学部倫理教育学部に入学して、勉 学を続け、昭和八年までかかってその論文を仕上げた。「イギリスボーイスカウ ト運動について」か主論文で、日大総長賞を授与された。 昭和四年(一九二九)第四回世界ジャンボリーに参加し、佐野常羽団長の片腕と して奉仕し、その機会にイギリスのギルウェル・トレーニング・コースに入所し た。その間にBP卿に接する機会があり、BP卿と佐野常羽との友情を身近に見 るや、BP卿に付いてボーイスカウトの心髄を学びたいと考えるようになり、皿 洗いをしてでもイギリスに留まり、BP卿に接したいと言い出して佐野常羽団長 に「それはイケマシェン」と叱られたという。 このようにしてスカウティングの源流をきわめて帰国した後は、同志と共に実修 所の充実に務め、佐野常羽と共に指導者の養成に東奔西走した。この頃の同志は 山口季次郎、古田誠一郎などであった。 戦後、ボーイスカウトの再建後は日本連盟中央審議会議員として再建スカウティ ングの普及充実につとめ、またボーイスカウト・アメリカ連盟のシフ中央指導者 訓練所に入って研修し、指導者研修の指導資料の作成につくした。 昭和三十二年、初めての日本ギルウェル実修所の開設に当たっては、その豊富な 経験を生かして、資料の作成、資材の整備に献身的に努力した。 D.C.C.に任命された後は、所長・所員として指導者の養成に務め、スカウ ティングの向上に努力した。 晩年は事務局嘱託として専ら指導者養成資料の作成充実に力をつくした。 彼の生涯は、佐野常羽に見いだされて若き日の情熱のすべてをボーイスカウト運 動に捧げ、スカウト教育に対する深い造詣と、全生涯を通して果たした偉大な功 績を残した。また、W.ヒルコート氏と並んで世界的なBP伝研究者であった。 昭和二年、山中の実修所の所員として奉仕されたときの心境を歌にした「山中の 森へ」を作詞、これを忍んで「われはふくろ歌碑」が作られ、昭和四十三年八月 七日、年長隊富士野営の朝礼の時、除幕式が行われた。 昭和四十三年一月十九日、ボーイスカウト運動に尽くすと共に、青少年育成・社 会教育に寄与した功績により「従六位勳五等瑞宝賞」が追贈された。

    「山中の森へ」歌物語    吉川哲雄 昭和四十二年三月九日  スカウトのキャンプファイアーのあるところ、この歌が愛唱されておりまして、 作詞者というほどおこがましくありませんが、とにもかくにも思わずこの歌詞が 口に出た者として、その由来を尋ねられますので、書き記します。 これはほんとうは、自分が当時の心境から出た私自身の心の歌でありますので、 広く皆さんに愛唱されようという気持ちは少しもありませんでした。 私は、大正十四年(一九二五年)八月一日から一〇日まで、少年団日本連盟主催 の中央訓練所(第一回の指導者実修所で、当時は訓練所といっていました)、場 所は山梨県南都留郡中野村山中湖南岸大洞沢でした。この名称でわかりますよう に、篭坂峠の一軒茶屋から湖岸までは家はありませんでした。静かな樹林の中に、 所長・佐野常羽先生が大洞沢(おおぼらざわ)の中に、一カ所洞穴から水が流れ 出るところを発見され、そこで訓練所を開設する決意をされたのです。隊長は、 福島四郎先生、実修生七六名(この中には現日本連盟先達 山口季次郎、事務局 長 八木 清、中村 知などが入所されました)朝夕に富士を仰ぎ、旭が丘で佐 野先生の講義をうけたまわりたいへん感奮いたしまして、その後大阪から単身上 京、山口季次郎先生と共に佐野先生をお助けして日本の指導者実修所を確立する ことと、スカウティングの学問的な裏付けをいたしたいために、大学で教育と倫 理学を専攻いたしました。 とは申しますものの、私どものできます仕事は麻布にありました、高松宮御用 邸の空き地を拝借いたしまして、小さい小屋を建て実修所の野営用具をセットに して、整備、補修、改善し、その後佐野先生が丸ビル内八六六室に事務室を設け られ、秘書仕事やら掃除兼実修所用品の今でいうクォーターマスターですから、 非常に忙しく、佐野先生はベーデン・パウエル卿ご夫妻とも特に親しくしておら れ、神道漢籍に明るく、英独大使館付武官をしておられましたから語学に堪能で あり、砲術出身ですから数学に明るく、しかもボーイスカウト運動に生命をかけ ておられ、ギルウェルには三回も入所され、細心緻密でありますから、私のよう な不敏なものは、キリキリ舞いをいたしたしだいです。しかし先生の晩年まで前 後七ケ年ご指導を受け、全く昔の禅家の雲水修行は形がモダーンであるがこうし たものかと思いました。 こういう背景を申し上げて全く佐野先生が私を紹介されるときに「この人は、 ボーイスカウトの雲水です。」といわれるとおりの生活で、寸刻の油断や隙もな い心構え、体構えの連続でした。 昭和二年中央実修所山中道場が開設されました、七月二十二日ー八月一日まで 少年部教程第二期、所長は佐野先生、福島先生を隊長として、所員は山口季次郎 先生と私の2名、実修生三十六名。このころは所員はたいてい二名ですからおわ かりと思いますが、私はキャンプのクォーターマスターの上に所長、隊長、所員 の炊事も加わるので、当時、東京出発の際には、現地大洞沢から中野村、峠の一 軒屋から大洞沢までは馬の背によるか、二輪馬車で輸送するので、大部分東京で ろうそくまで調達して目のまわるような忙しい準備をしてトラック積みにして、 それの上載りをして篭坂峠に悪道をたどりつくのでした。       「われは ふくろよ 楽しきふくろ」 は、森のふくろの気どりなさが好ましかったから、ふっと思いだしたのです。 しかも苦しいことの連続ですけれども、スカウターの道を開拓してゆく楽しさは またその中にありました。 「つとめ果し 心さやか」 さきほど申しました、私のなすべきことは誰から命令されたわけではありません が、実修には、あれもこれも必要であろう。所長には、隊長にはと寸分の隙なく 考え、山口さんにはバターとチーズがあれば上機嫌だというふうにあらゆる準備 つまり「そなえよつねに」の実行で、いざトラックに乗ると、どんなにゆれよう とも、もうすべて果たした後でありますので心さやかに、霊峰富士がまだかまだ かと待つばかりです。篭坂峠の最後のカーブの上り坂がなかなかの難所で、トラ ックが息を切らします。とびおりて後押しします。助けになるかならぬかではな く、誰も助ける者のいない絶体絶命の場合です。タイヤに石をかませたり、押し てみたり、とにもかくにもこの荷物を一歩でも峠の上へ上げねば始末におえない のです。それに既に富士の夕映えは刻々と色を変え、雄大な裾野は夕闇が迫って きて、遠くの村里に小さな灯が点々とつきます。峰はまだ明るくても夕星が出は じめる。壮麗な星座の一等星がキラメク、トラックはまだ遅々として上り切らな い。運転手も助手も懸命の努力をつづける。トラックは首をふりながら上る。峠 の肩に上りついてトラックをとめたときはあたりは暗く、星は頭上近く瞬いてい ました。 「今宵うれし星明りに」 全く星明りをこのとき実感しました。星が懐中電灯のように近く輝いて香のにお うような光りが繁りあった木々の間の道も、私自身をも照らしていました。 一軒茶屋に着くとトラックの荷物はひとまず下ろし、トラックは一路東京へ急ぎ 帰ります。後は暗いランプの光が軒先を照らします。軒に馬をつないで待ってい てくれました村方の人に、こんどは二輪車に積み替えて、雨水の流れでできた道 を大洞沢へ下ります。食事もそこそこにして坂を下る馬がかわいそうなので、私 も毛布袋をかついで下りました。頑丈でない身体で峠から大洞沢までどうしてか つぎ下りたか、今から思うと奇蹟のようです。 「わがふるすへ帰らなん」 これは文字どおり、私のキャンプをした跡へ辿りつきました。歌はここで 「ああ 富士の麓 山中の森かげに」 になっています。私にとっては、そう詠嘆してはおれないのです。キャンプの跡 は、あそこは鉄砲水といって雪どけ期には急に大出水のために、キャンプ地は洗 い清めたように美しくなりますが、実修所先発者としては、早速テント張りを一 応その中へ全部荷物を格納して、急雨に濡れない作業を星明りでします。そして それができて、今夜自分の寝るテントを張ります。これができあがった時が、ほ んとうに 「ああ 富士の麓 山中の森かげに」 を二度目に歌う時にあたるでしょう。ただし、その時は心身ともに疲れはて、わ が古巣へ倒れ込んだ姿です。時は夜半に近く、星はますます冴えて美しく清く涼 しい光りを放っていました。 (歌曲)は「バック ツウ ギルウェル」で作曲者は誰であったか、聞きもらし ました。これもまた一万五千海里の海を渡ってきたあこがれのギルウェルだから どうしてもよく学びとり、日本へ伝えたいと真剣そのものであったからです。だ が、その間、この「バック ツウ ギルウェル」をたえず口づさんでいました。 歌詞がもう一つよくできていたらと思っていました。曲は懐かしい、いい曲だと 思います。そう思っていたことが動機になり、美しい富士山に接して歌詞を作る 動機となったと思います。 「山中の森へ」の歌声をたよりにキャンプファイアーを訪問するときの気持ちは 何ともいえない喜びですし、私にはありし日の若さを思い起こさせ、勇気を与え ます。歌ってくださいます方々に、ほんとうにありがたいとお礼を申します。 あるいは、この歌は、私の鎮魂歌となるのではないかと思っています。 私がこの世を静かに去ります時、どこの場所でありましても、私の耳の中に「山 中の森」の歌曲が響きますと、私は 「つとめ果し、心さやか」 の心境になり、あの蒼忙として灯一つなかった山中湖畔とその森が浮かんでくる からです。

★ラジャード・キップリング   Rudyard Kipling 1865-1936 イギリスの小説家、詩人。一九〇七年にイギリス人として初めてノーベル文学賞 を受賞した。 一八六五年十二月三十日、インドのボンベイで生まれ、数多くの詩や物語を書い ているが、中でもインドのジャングルが舞台になっている物語はオオカミに育て られて種々の野獣と交わり、森のおきてを教わるモーグリ少年の物語「ジャング ルブック」(一八九四年)と、ラマ僧に従って旅に出る孤児の物語「キム」(一 九〇一年)は、有名である。 「キム」(Kim)はノーベル文学賞受賞作品であり、あらすじはB−Pの著した  Scouting for Boys にキムの冒険と題して紹介されている。ボーイスカウトで採 用されているキムスゲームは「キム」からとったものである。また、「ジャング ルブック」の物語ははウルフ・カブ部門の背景になった。 B−Pとはインド駐在時代からの親友であり、彼の作品はベーデンパウエルを通 じてボーイスカウト運動に多大の影響を与えた。 また、キップリングの息子ジョーンはボーイスカウトに入り、後にボーイスカ ウトのコミッショナーにもなった。

 【参考】「キム(Kim)」の物語 キム(キムポールオハラ)は、インドに駐留していたアイルランド連隊の軍曹の 息子で、彼が小さいときに父母に死に別れ、叔母の世話になっていた。 遊び仲間がみんな土地の少年だったので、彼はインドの言葉を覚え、その地方の 風習をよく知るようになった。彼は冒険好きであった。しばらくして、キムは、 政府の情報部員で宝石商のラーガンという人と知り合った。 ラーガンは、キムが土地の風俗習慣をよく知っており、機敏なのに目をつけ、役 にたつ情報部員にできると考えた。ラーガンは、キムにいろいろな宝石を一分間 見せて、布でおおい、どのような宝石が何個あったかをテストした。 何回かの訓練の後、キムは大切な注意力と記憶力の技能を身につけた。 このキムの物語から、ボーイスカウトの訓練で行う「キムス・ゲーム」のアイデ アが生まれた。キムは、その後、いろいろな訓練を受け、立派な情報部員となり、 ある時は「こじき」に変装したりして大きな手柄をたてた。 【関連】キムス・ゲーム Kim's Game 「キム」の物語から生まれたスカウトの感覚訓練を行うゲーム。 二十四個の品物を一分間見せて、そのうち十六個以上を記憶していれば合格。 以前のボーイスカウトの2級スカウトの考査課目であった。

★レイノルズ    E.E.REYNOLDS イギリス 一九一〇年代よりスカウト運動にたずさわり、そのうち十七年間は実際に隊長と して隊運営に手腕を発揮した。 一九一九年、ギルウェル実修所の第一期を修了し、その後、ギルウェル・トレー ニングセンターで副所長を務め、一九二九年から一九三四年には所長代理 D.C.C  (Deputy-Campchief)を務めた。所長代理としての彼は、イギリス各地だけでなく、 アイスランドやヨーロッパ各地でも隊長のためのトレーニングキャンプを数多く 開設した。長くギルウェル実修所の所員を務め、かつ実際指導の老練家であり、 スカウト運動の歴史についての力作は天下一品である。アメリカのW.ヒルコー ト氏とならんで、スカウト文献作者の双璧といわれている。有名な著書に「スカ ウト運動」(The Scout Movement)がある。

★レディ・ベーデンパウエル  Lady Baden-Powell 1889.2.22-1977.6.26 ベーデンパウエルの夫人。 レディB・P。  オレーブ・レディ・ベーデンパウエル。 フルネームはオレーブ・セントクレア・ソアムス (Olave St. Clair Soams) 一八八九年(明治二十二年)二月二十二日生まれ。イングランドのチェスターフ ィルドの郊外で、ソアムス家の二人の兄姉をもつ末娘として誕生した。 父のハロルド・ソアムスは醸造家であり、また芸術家、建築家であった。この父 は若くして、その経営を人に託し、自分の優雅な趣味の生活と、子女の教育のた めに後半生を投入し、幸福な家庭をつくることに専念した。 ベーデンパウエルが夢の中で、聖ペトロの啓示で日本訪問を決意し、アメリカ訪 問の後、日本を訪問すべく、一九一二年一月三日、客船アルカディアン号に乗っ た。オレーブは父と共に、西インド諸島を巡航するため、このアルカディアン号 に乗っていた。ベーデンパウエルは、船上でミス・オレーブ・ソアムスを紹介さ れ、一目で好意をもった。そして二人とも二月二十二日の誕生日であることも奇 縁として毎日甲板場で明けても暮れても語り尽くした。一九一二年一〇月三〇日 に二人は結婚式をあげた。 ベーデンパウエルは五十五歳、オレーブ・ソアムスは二十三歳であった。 その後、ガールガイド(ガールスカウト)のワールドチーフガイド(総長)とな った。ところで、ベーデンパウエルが「スカウティング フォア ボーイズ」を 著し、ボーイスカウト運動が始まったとき、ベーデンパウエルは「スカウティン グは魅力的な組織で、少女にとっても価値ある訓練である。」と述べている。 また、「よりよき母親になり、次の世代を導くため」、ガールガイドの計画を持 っていた。しかしガールガイドは少女を祖雑にし、おてんば娘を作るものだとい う世論の批判があった。そこで、ガールガイドの組織化を図るため、ベーデンパ ウエルの妹のアグネスを指導者とした。アグネスはビクトリア時代の女性で、  「女は女らしく」と考える古い世代の価値観を代表していた。ベーデンパウエル は世間の「おてんば娘」の批判に応える意味でアグネスが適任であると思った。 一九一四年八月、第一次世界大戦が始まりイギリスはドイツと戦った。この時、 アグネスの率いるガールガイドは靴下を縫ったり、古紙を集めること以上のこと はさせてもらえなかった。第一次大戦中、女性は経済活動や銃後活動に積極的に 参加するようになる風潮の中、ガールガイドに不満の声が出ていた。ベーデンパ ウエルはガールガイドを全国的に組織化する必要を感じたが、アグネスに組織運 営の能力に限界を感じていた。一九一四年九月、若き妻オレーブはガールガイド 委員会の委員としてこの運動に参加した。一九一六年にはサセックスのカウンテ ィコミッショナーとなり、若さと情熱で少女達の心を捉えるようになった。 オレーブはアグネスの書いた「ガールガイド・ハンドブック」の内容に共鳴する ことが出来ず、自ら「ガールガイデング」を発刊し、ビクトリア時代の古い感覚 を払拭した。一九一八年(大正七年)オレーブはついにチーフガイドに就任した。 アグネスとオレーブは考え方の違いがあり、かたやビクトリア時代の女性感と、 かたや二十世紀の新しい女性感の違いがあった。ベーデンパウエルは常にオレー ブを支持した。オレーブに率いられたガールガイドは一九二〇年代後半には五十 万人の会員を有する組織となった。ベーデンパウエルの没後も、三十年にわたっ てチーフガイドとして世界のガールガイド、ガールスカウト運動を指導した。 一九六二年十一月と一九六六年九月には日本を訪問している。また、この間一九 六三年には日本政府から勳一等瑞宝章が贈られた。 一九七七年(昭和五十二年)六月二十六日逝去。 ケニアのニエリの墓地に夫B・Pと共に眠る。

★ローラン卿  Lord Rowallan イギリス連盟第3代総長 Chief Scout ,ロード ローランとも呼ばれる。 「スカウティングは少年にとってはゲームであるが、大人にとっては 一つの仕事である。自分の仕事にふさわしく自分を資格づけるのは 人としての義務である。」 Lord Rowallan のことば。

★ローランドフィリップス Roland Erasmus Philipps 1890-1916 イギリス初期のボーイスカウトであり、イギリスのフュージリア砲兵第9大隊、 陸軍名誉大尉、ボーイスカウト・ロンドン東部および北東部コミッショナー兼ウ ェールス州副コミッショナーを歴任。 ローランド・エラスムス・フィリップスは、セント・ディビッド子爵の第二子と して一八九〇年ロンドンに生まれた。ウインチェスターとオックスフォードのニ ューカレッジで教育を受け、一九一一年に卒業すると、リバプールに赴き、船運 業に従事した。彼がスカウト運動に初めて接したのは、リバプール滞在中、ブラ ンデルサンドの隊を手伝った時であった。一年後、彼はロンドンに戻ると、ロン ドン東部の副コミッショナーに任命された。彼は仕事に対して無限の能力を備え ており、ロンドンの六つの地方支部の仕事をしながら、たえず新しい奉仕活動を 行っていた。一九一三年、彼は名著「パトロール・システムおよび班長への手紙」 (The Patrol System and Letters to a Patrol Leader) を発行した。彼は、あらゆるスカウト活動の手段として、これに完全な信念を持 っていた。彼の精力は、彼が書いた次のような手紙に示されている。 「熱意というものは北風のようにとどろき、ナイアガラのようにふつふつと涌き 出るものである。」 一九一四年、彼は第九フュージリア連隊の将校に任命され、訓練に出発する前、 ロンドン東部のイースト・エンドというスラム街の恵まれない少年達のために 一つの場所を提供した。それはステフェニー・グリーン二十九番地にあるジョー ジ王朝時代の家屋で、現在はスカウト会館であり「ローランドハウス」として知 られている。彼は記念館と共に、クリスチャンとして、またスカウトとして、輝 く業績を残した。一九一六年七月七日 フランス戦線にて戦死。

     「この世を支える偉大なる精神と      その精神を導き示す愛のこころとに      およびまさるもの他にあなじ      そは、神を意味する      そは我等スカウトの全てのものに      いみじくも浸みわたる      スカウティングは神より生まれ      神はスカウティングとともにいます      それ故に、スカウトたちよ      なにひとつ、おそれるものなし      奉仕と犠牲とに励むならば      勝利は我等の手にあり      スカウトたちと共にあらば      今も、また、末永くいつもいつも      すべては、さいわいならん」 一九一六年 フランス戦線にて(戦死直前) 

【参考】 ローランドハウス(Roland House)について ローランド・フィリップスの作ったスカウトハウス。 イギリスの貴族の家に生まれたロー ランド・フィリップスは、オックスフォード 大学を出ると、ロンドンのスラム街に飛びこみボーイスカウトを作り、隊長にな って指導した。このとき第1次大戦が勃発し、彼は従軍を志願した。フィリップ スは自分の邸宅を売り払い、その代金を友人に託し、スラム街によい家を建てて あの子らを次々と教育してくれと頼んだ。彼は戦死したが、友人のリーダー達は スカウトハウス(名付けてローランドハウス)を建て、次々と子ども達を教育し て立派な人物が生まれた。ローランドハウスにはフィリップスの使っていたもの が今でも展示され、彼が涙と共に子どもを訓戒した涙の跡のついた机もあるとい うことである。

★渡邊 昭  (わたなべ あきら) ボーイスカウト日本連盟第七代総長 昭和四十九年五月(一九七四)推戴される。 元ボーイスカウト日本連盟総コミッショナー 元 伯爵、大日本少年団連盟監事、帝国少年団協会理事等を歴任する。 昭和天皇の学習院時代のご学友でもある。 三島通陽(日本連盟第四代総長)、松方三郎(日本連盟第六代総長)の後輩とし て、学習院で乃木希典院長の教育を受けた。 昭和三年、三島通陽(当時は東京連合少年団理事長)の紹介で、東京連合少年団 の理事になったことがボーイスカウト運動との出会いであった。 先輩の二荒芳徳、三島通陽らの指導を受け、教育面に特に関心を持ち、昭和五年 鶴ヶ峰道場で少年部実修所を、また同年六月には筑波道場で幼年部実修所を修了 した。引き続き田門平八所長の下で所員として奉仕し、また、中国地方実修所で は隊長として奉仕した経験がある。 昭和九年五月には、財団法人少年団日本連盟審議員に就任をし、同年十一月には オーストラリア・ジャンボリーに日本派遣団長として三人のスカウトを引率して 参加した。 昭和十一年、少年団日本連盟理事に就任。昭和十三年にはヨーロッパ各国の社会 教育状況の調査のため文部省から委嘱されて、イタリア、フランス、イギリス、 ドイツを訪問した。特にドイツでは、青少年ドイツ派遣団(文部省主催)の参与 として、朝比奈団長を指導した。そして、ドイツ派遣団が帰国後もベルリンに残 り、昭和十四年六月まで、主としてヒットラーユーゲントの活動を調査した。 帰国後は、大蔵大臣秘書官、企画院総裁秘書官などを歴任した。 昭和十八年には貴族院議員に当選した。 昭和二十一年には全華族の方々とともに爵位を辞退し、貴族院議員も辞職した。 戦後のボーイスカウト運動再建とともにボーイスカウト日本連盟相談役、理事、 評議員などを歴任し、昭和四十二年五月、総コミッショナーに就任し、昭和四十 九年五月には第七代総長に推戴された。 世界的には昭和四十二年からアジア太平洋地域の委員として、また昭和四十八年 七月には、故松方三郎総長の後任として世界スカウト機構世界委員会委員に委嘱 され、日本のスカウト運動とともに世界のスカウト運動のために大きな貢献を残 した。 昭和四十三年六月には総理府から青少年問題審議会委員に委嘱を受け、日本の青 少年問題の対策に努力した。 実業界では三楽オーシャン株式会社顧問、経済団体連合会委員等を歴任した。 また昭和天皇のご学友の一人として幼稚園時代から、昭和天皇のおそばに奉仕さ れたことは、渡辺総長のお人柄から自然とにじみでている。 昭和四十四年十一月、藍綬褒賞受賞



              【参考文献】

 この本を編集するに当たり、引用した参考図書を以下に示します。

【日本連盟発行の出版物】
・スカウティング フォア ボーイズ Baden-Powell
・スカウト運動       E.E.Reynolds
・ベーデン・ポーエル伝 William Hillcourt,Olave Lady Baden-Powell
・パトロール・システムおよび班長への手紙 Roland E. Philipps
・ボーイスカウト ハンドブック (初級)
・ボーイスカウト ポケットブック
・日本ボーイスカウト運動史
・月刊スカウティング誌
・月刊スカウト誌
・昭和天皇とボーイスカウト運動

【その他】
・ボーイスカウトをつくった人「ベーデン・パウエル」 志村 武・編著
・新町少年義勇団史               井出 存祐・編著
・敬慕のいしぶみ 佐野常羽先生の思い出 佐野先生を忍ぶ会・編著
・遺稿集 三島 通陽 遺稿集「三島通陽」刊行会
・音なき交響楽 三島 通陽・著
・那須淡談 野営場だより 古田 伝一・著
・ちーやん夜話集 中村 知・著
・ちーやん歌集  中村 知・著
・兵庫県ボーイスカウト25年の歩み   ボーイスカウト兵庫連盟
・忍者 ボーイスカウト兵庫連盟
・大阪ボーイスカウト運動史 ボーイスカウト大阪連盟
・ボーイスカウト愛知連盟史 ボーイスカウト愛知連盟
・私がスカウティングで見付けた”この人” 三木 保男・編
・ボクラ少国民 (講談社) 山中 恒著
・日本の名門100家U (河出文庫)    中嶋 繁雄著
・世界人物辞典 (旺文社)
・学習人名辞典 (保育社)
・シートンの自然観察 (どうぶつ社) E・T・シートン 藤原英司訳
・The American Boys Handy Book (朝日ソノラマ) Daniel Carter Beard 著
・The International Cub Scout Book
・Encyclopedia Americana



(長 八洲翁編著「スカウティングに影響を与えた人々」より)


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編著者 長 八洲翁